「書籍が売れなくなった」といわれて久しい昨今。そんななか、2021年4月の発売開始から、わずか1日でAmazon「産業研究」カテゴリにおいてベストセラー1位を獲得、2日で1万部を突破し、約3ヶ月で8万部を突破。まさにギガ速で市場で売れている驚異のビジネス書がある。タイトルは、『トヨタの会議は30分(すばる舎出版)』。この書籍の著者が、F6 Design株式会社の代表取締役、山本大平氏(戦略コンサルタント/事業プロデューサー)である。新卒でトヨタ自動車にエンジニアとして入社し、その後はTBS、アクセンチュアへの転職を通じて、異色のキャリアを築いてきた人物だ。彼はなぜ、このタイミングで「トヨタ」に関するビジネス書を出版したのだろうか。また、なぜ安定思考に留まらず果敢に挑戦を続けるのだろうか? 本稿では、山本氏の幼少期まで遡り、その人格形成に至った経緯や個性的なキャリアの理由、人生哲学にわたるまで、他メディアでは知ることのできない貴重なインタビューをお届けしたい。

次世代のマーケティングノウハウで、ビジネスをデザインする会社。

弊社は、企業の経営支援、特に売上をグロースさせるマーケティング領域に関して強みを持つ会社です。得意分野は、企業・事業の新規プロデュース、ブランディング、AIを駆使した次世代型のマーケティング、また最近では働き方改革など組織変革の領域にも力を入れております。さらに、経営における売上拡大をドラスティックに行うだけでなく、原価低減も同時に達成するためのコンサルティングも強みとしています。つまり、うちに頼んだ瞬間に「実質タダ」で利益が上がるというコンサル会社です。たとえば、マス広告の予算を大幅に削減し、より低コストで効果の高いPR(Public Relations)手法を戦略的に展開することも、ソリューションの一つです。誰もが知る大手IT企業や時価総額1000億円前後規模の上場企業など、弊社が名だたるクライアント企業からお取引をいただけている理由は、低コスト(実質はタダ)で圧倒的な成果(原価低減による増益だけではなく、特殊なマーケティング手法を複数組み合わせ圧倒的な売上を創出できること)にあると考えています。さらに他の経営コンサルティング会社との決定的な違いは、弊社が統計学やデータサイエンスを駆使した問題解決のアプローチを採用している点にあります。これは、トヨタのエンジニアとしてキャリアをスタートし、ビッグデータに向き合ってきた私が、「トヨタ式問題解決」をさらに改善した“独自の問題解決手法”です。たとえば、クライアント企業の売上に最も影響する因子は何かというアバウトな課題についても、データサイエンスを駆使することで問題の本質を的確に掴むことができます。端的に言えば、仮説すらデータドリヴンで導き出します。その結果、最短距離での真因特定とソリューションの提供が可能になるのです。また、他のマーケティング会社との違いは、経営視座でマーケティング機能の強化を支援できること。弊社において「マーケティング」という言葉は、「コンバージョンの最適化」「調査」「プロモーション」などに分類される狭義のものではありません。マーケティングとは、経営に資する視座の高いワードであり、ビジネス全体のデザインに寄与するものです。もちろん弊社では、戦略から戦術まで、ハンズオンで経営のご支援をさせていただいております。これは私の勝手な捉え方ですがMarketingとはMarketをingすること、つまり市場全体に大きな態度変容が実現できて初めてマーケティングと呼べるのではないかと考えています。

F6 Design株式会社 代表取締役 山本 大平さん幼い頃から野球三昧。甲子園での観戦は300回以上!?

生まれは大阪府八尾市です。私の地元は野球が非常に盛んな地域で、元プロ野球の桑田投手が所属していたボーイズリーグ『八尾フレンド』があります。私自身、野球好きな父の影響で、3歳の頃にはカラーバットで野球をスタート。父と兄と、阪神戦をテレビで観るのが日課でしたね。幼い頃に好きだった選手は、当時の〝三冠王〟に輝いていた米国出身の打者、ランディ・バースです。足は決して速くないのですが、イチロー並みの打率を叩き出す凄まじい選手でした。1985年、私が小学1~2年生のとき、阪神タイガースが優勝しました。あのときの感動と人々を包む高揚感は、今も鮮明に覚えていますね。

弱小チームが、レギュラー争いの過程で大躍進!

大阪の府立高校に入学した私は、迷わず硬式野球部へ入部します。そこは進学校だったこともあり、入部当初は弱小チームでした。しかし、私が入った同年代は、状況が違いました。偶然にも、同級生の新入部員が、25名という異例の大人数だったのです。単純計算で、25名のうち7名はベンチにさえ入れません。当時の私は、いつか自分が父親になったときの未来を想像していました。もしここで「補欠」に甘んじれば、いざ父親になったとき、自分の子どもに示しがつかない…。大好きな野球であっただけに「弱小校で補欠」「お父さん野球下手なんだね」これだけは我が子に思わせたくない、今思えばどうでもいい話なんですが、当時は高校生でしたので深刻でした(笑)。それくらい365日のほぼすべてが野球漬けだったので。そんな未来は、なんとしても避けなければ…!そう思って夢中で練習したのです(笑)。きっと仲間も同じような気持ちだったのでしょう。競争の原理が自然と働き、チームは急激に強くなっていきました。最終的には約200校が集う大阪府の甲子園予選大会にて、4回戦出場を果たすという快挙を達成。我々のような公立高校がそこまで勝ち抜くのは、まさに異例中の異例の出来事でした。また悔しくも4回戦で敗退しましたが、大阪大会で何度も決勝に進出する相手に4−1でそれなりに負けました。このときの記録は、母校の後輩たちにも未だに更新されていないようです(笑)。大阪桐蔭や履正社といった甲子園常連校のプロ予備軍の人たちからしたら大したことはない成績だと思いますが、野球熱量の高い大阪で普通の公立高校が4回戦まで進出するのは確率にしたら1-2%程度の話なので。

人生初、スポーツ科学との衝撃的な出逢い。

実は高校2年生のとき、過度の練習により腰を痛めてしまった時期がありました。何をするにも激痛が走り、普通に歩けないほどの重症です。すがる想いで10軒も病院を訪ねたものの、結果はいつも同じ。これ以上の悪化を避けるためには、「野球を辞めるしかない」という絶望的な診断でした。ベンチ入りできない、将来の自分の子供に恥ずかしい、それよりも好きな野球が一生できない・・・。1ヶ月ほど部活にも顔を出さなくなり、墨で辞表を書いていましたね(笑)。人生初の挫折です。当時高校生だった私にはお先真っ暗な状況です。そんなとき、みかねた母が気になる噂を聞きつけてきます。腕利きのドクターが難波にいるというのです。後に分かったことですが、そこは名だたるプロスポーツ選手が故障時に通う医学研究所で、噂の先生というのは、『セレッソ大阪』のチームドクターを担う人物でした。初診の日、ドクターは腰のレントゲン写真を一目みると、私の症状を理解したようでした。診断結果は、腰椎分離症。野球選手の3人に1人が発症する故障なのだとか。さらに驚いたのが、その治療法です。ドクター曰く「辞めんでええよ、もっとやれ」「その代わり、腹筋と背筋を鍛えろ」とそれだけ云われたのです。これは予想外の展開でした。他のお医者様は10/10が「歩行も困難だから辞めなさい」と診断。でもこの先生は真逆の診断。しかもさらに患部の周囲を鍛える指示を出す。私は半信半疑のまま併設されたトレーニングジムに通い、科学的トレーニングの指導を受けました。そして驚いたことに、あれほど深刻だった腰痛が、2ヶ月で本当に完治してしまったのです!これには本当に驚きました。また、そこはプロ野球の球団やJリーグにも数多くトレーナーを輩出するトレーニングジムでもあり、〝治療のついでに〟トレーナーの方から野球が上手くなる鍛え方を教えていただきました。教えていただいた投球の飛距離を伸ばすためのトレーニングも、まさかの凄まじい効果を発揮します。重いダンベルを上げるといった鍛え方は一切せず、5kg程度の鉄アレイのみを使うといった非常に“地味”なトレーニングなのですが、遠投という目的に特化して筋肉を鍛えた結果、なんと100mも投げられるようになったのです!(ちなみにプロテストは90m)―― スポーツは〝科学〟が制するもの。そう身をもって知った強烈な体験でした。そしてそんな私の劇的な変化を仲間が見逃すはずがありません。最終的にはメンバーのほとんどがケガを装ってドクターのもとへ通い、続々と能力開発をしにジムに通い出しました(笑)。今思うと、真因を抑えて課題解決をしているジムだったと思います。ロッテのトレーナーになられた寺前さん、その節はお世話になりました(笑)。

F6 Design株式会社 代表取締役 山本 大平さん研究活動に没頭した大学の研究室時代。

高校3年間を最後に、私は野球人生を引退しました。自分のなかで、もう充分にやり切ったという納得感があったのです。甲子園の予選で負けた直後も一人だけ泣いていなかったのをこっそり覚えています。大学では、有機化学を専攻しました。なかでも強い関心を持ったのが、「有機合成化学」や「分子生物学」という領域です。その動機は、身近に起こる現象について、「知りたい」「解明したい」という純粋な好奇心にありました。幼い頃から、私にとって世界は解らないことだらけ。ひとたび「なぜ?」が始まると止まらなくなり、親を困らせてきたタイプのいわゆる「なんで君」だったのです。高校時代に遭遇した、スポーツとサイエンスに関する謎も、ずっと心に引っ掛かっていました。「あのとき、なぜ腰痛が治ったのか?」「なぜ100mも投げることができたのか…?」時を経てもなお、不思議で仕方がなかったのです。とめどない好奇心に突き動かされ、私はサイエンスの研究にはまっていきました。Nature,Scienceレベルではありませんが、修士課程を修了するまでに、それまで積み重ねた自身の研究成果を国際ジャーナルNucleic Acids Symposiumに一報出せたことは、秘かな誇りと自信になっています。

初めての就職先となった、トヨタとの出逢い。

新卒で入社したのはトヨタでしたが、恥ずかしながら当時の私に、明確な志望動機があったわけではありません。大学の研究室での研究は心から楽しく、新たな真実を突きとめたときには、鳥肌が立つほど感動したものです。将来も研究を続けたいという気持ちがある一方、研究者の世界には圧倒的に優秀な人材がいて、自分には到底適わないと悟ったのも正直なところでした。隣の研究室の助手先生の発想力や着眼点というのは、当時助手にも関わらずNature, Scienceにその先生の研究がコンスタントに掲載されている。私のような人間に担えるのは、そのような天才が描いた枠組みの中の一部の作業に過ぎないと、いつしか知るようになったのです。そんな折、大学の研究科と繋がりの深い企業から、新卒募集要項が研究室が並ぶ廊下の掲示板にA4一枚で小さく貼り出されていました。しかも素通りしてしまう様な位置にこっそりと。そこには30社くらいの記載があったと思いますがその企業リストのなかに、トヨタの記載があったのです。30社もあるので、私はすぐに、その写メを頼りにしていた兄に相談しました。「兄ちゃんならどこ受ける?」と。そして、数ある就職先候補のなかで、「俺ならトヨタかなあ」という兄の一言で進路を決めました。野球を教えてくれたのも兄でその当時も兄は社会人3年目でしたので私にとって兄は道標的な存在だったので。一方で、現実的な理由もありました。うちは決して裕福といえる家庭環境ではなかったので、修士を卒業するまでの学費は、すべて奨学金にお世話になっていました。社会人になった時点で、400万円の返済が待っている身としては、安定企業への就職は必至だったのです。トヨタのリクルーターとの面会を経て、面接を受け、正式に入社が決定。もちろん兄の言葉は私が足を一歩踏み出すきっかけでしたが、面接するまでに約15人ほどのトヨタパーソンと合わせて頂き「みなさん厳しそうなんだけど、なぜかここが心地いい」と“直感”で感じていました。「5回のなぜ」や「無駄をなくす」に代表される「トヨタ式の思考法」は、元来「なんで君」の私には魅力的でした。10社ほどは他の会社の方ともお会いしましたが、トヨタ社員の方々と話しているときが最も自然体の自分でいれたのです。

F6 Design株式会社 代表取締役 山本 大平さん新型車開発のエンジニアとして、徹底的に叩き込まれたトヨタイズム。

入社直後に感じたのは、TVや新聞といったメディアで見ていたトヨタのイメージと、実際に働いてみてのギャップでした。三河弁、名古屋弁バリバリのエンジニアたちが、激しくやり合う様子を初めて見たときには度肝を抜かれたものです。CMで見ている綺麗なTOYOTAではなく限りなく泥臭い会社でした(いい意味で)。しかし、トヨタの社内では、それがごく当たり前の光景であり日常。いわゆる直球勝負のカルチャーなのです。とはいえ、扱う商品の特性上、それは当然のことでした。もしも車両開発や量産の段階で生じた問題を放置すれば、お客様に安全なクルマを提供できません。特にエアバックやシートベルトなど、安全装置に欠陥があれば、ひとたび事故が起きたときに取り返しがつきません。そういった理由もあってトヨタでは、新車開発の際には、過去に起きた不具合は、すべて改善改良を行った上で、新型車の図面へと徹底的に反映させていました。私は在籍時トータルで8車種ほど新型車の開発の仕事を経験しましたが、1車種あたり1担当で、おおよそ300~400箇所の構造変更(問題解決)を図面設計のフェーズからラインオフまでの間に行うことになります。なので8車種ですとおおよそ約3000の問題解決を行うことになります。厳しい環境に揉まれたおかげで、かなり鍛えていただきましたね。若手エンジニアだからといって、容赦はありません。お客様の命を預かる仕事ですから。自分が関わるクルマについて、1から10まで理詰めで説明できなければ、特に生産現場の技術者(オヤジさん)は相手にしてくれないのですから。厳しいダメ出しや叱責をとことん食らうわけですが、その根底にはいつも、お客様の望むもの・お客様を守るものを徹底的に追求するという、トヨタの哲学のようなものがありました。そのときは知り得なかったですが、他社のビジネスにも数多く触れてみて、トヨタは「顧客主義」が組織のすみずみまで浸透しているからこそ、トヨタは結果として世界のトップ企業と言われる立ち位置にいるのだと思うに至りました。(これはトヨタへのお世辞でも忖度でもなく外の世界に出て比較して(N数をとって)分かったことです)。

トヨタ時代に携わった仕事のなかで最も印象深いのは、レクサスLSの車内ノイズの改善に関わったこと。車内ノイズとは、ドライバーが乗車したときに感じる、「ミシミシ…」「キシキシ…」「カタカタ…」といった、微細な音のことです。当然ながらドライバーにはその微細音が何の音かは分からないので、運転中のドライバーに不安感を与えないためにもそのノイズ低減を行う必要があります。仮に安全性には関係のないノイズであったとしても、ドライバーが「故障かな」と思って運転することで安全性は低下しますから。そういった意味で車室内の静粛性の担保は、メーカーとしても見逃せないポイントでした。さまざまな試行錯誤の先にようやく実現に至ったレクサスLSの静粛性が、後に多くのカー雑誌から評価いただけたことは、非常に大きな自信になりました。知識や経験も他の先輩エンジニアの方々に比べて無かったので、誰よりも、数多く号試車(量産開発車)に乗って評価しました。石畳路やロープ路といった悪路だけではなく-20℃の車両加振部屋で南極に行くような防寒具を着て、車内ノイズ評価をしていた頃が懐かしいです。エスキモー状態で行うめちゃくちゃきつい評価なんですが(笑)。今でもこんな覚えの悪い私に、ノイズ評価の基本を叩き込んで下さった実験部の石原さんや品質管理部の斉戸さんにはとても感謝しています。何回も怒鳴られていましたが(笑)。

九死に一生を得た、学生時代の交通事故。

実は私、交通事故で死にかけた経験がありまして。大学院2回生の初夏のことです。友人宅にて麻雀で夜更かしをしたあと、バイクで帰る朝方の事故でした。クルマに撥ねられた私は宙を舞い、そのまま意識不明の重体に陥ったそうです。偶然にも、フルフェイスのヘルメットを被っていたことで(実はハーフキャップに替えようと思っていた矢先の事故でした)、運良くクルマに引きずられなかったことが、なんとか一命をとりとめた要因でした。警察の調べでは体が14m吹っ飛んでいたそうです。落ちた所もアスファルトではなく土手だったこともあり奇跡的に一命を取り留めたとのこと。何か一つの条件が違えば、確実に死んでいたそうです。このとき改めて、生きる意味について思いを巡らせるようになりました。奇跡的に救われた、己の命。この事故を機に、私の人生観は大きく変わったように思います。それまでは、経済的な成功への憧れや、上昇志向の強いタイプでした。しかし、一度は死んだも同然の身になってみると、そのようなことはどうでもよくなりました。お金や肩書きは、あの世までは持っていけません。死生観が180度変わりました。第二の人生、もっと冒険して、決して悔いを残さない生き方をしようと。次に死ぬときには、おかんに胸を張って「ありがとう、命使い切ったから」と言って死ねる様に、やりたいことを存分にやり尽くしてから死のうと思いました。

トヨタを退社する決意をする。

実は上記のような死生観でトヨタを退社する決意をした訳ではありません。いろんな複雑な理由があり、私なりに日々の仕事で感じることと考えることがあったため転職を決意しました。ただ3年間ほどは悩みに悩んでその上で転職を決意しました。また転職先として受けた会社はTBSの1社のみです。自分で3年間考えに考えて、ここならば、もしかしたら複合的な理由の一つであった大きな問題解決が図れるかもしれない、そう思ってTBSの採用試験を受けることにしました。転職理由に関する詳しい話をするには10時間は必要なのでここでは控えます。ただ決してトヨタが嫌になったとかそういったネガティブな理由はないです。むしろ心地がよいからこそ、育てて頂いた恩義があるからこそ、トヨタを離れる決断をするのに時間を要しました。

F6 Design株式会社 代表取締役 山本 大平さんそしてTBSへ転職、看板番組の黒子として活躍。

折しもTBSの編成局マーケティング部に自分のスキルが活かせそうな求人があり、私は奇跡的に転職することができました。33歳、子育て真っ最中というタイミングでトヨタを退職。しかも、東京への引越しまで伴いましたから、協力してくれた妻には今でも感謝しています。

異業種への転職を通じて、私の発想力も大いに鍛えられた(鍛えていただいた)と感じています。トヨタ時代とはまったく異なるスキルやカルチャーを自分のなかに取り入れたことで、物事をより俯瞰的に見られるようになったからです。何事も客観視できれば、本質は見抜きやすくなります。過去に培ってきたデータ活用スキルや論理的思考力に、新たに直感や発想力を掛け合わせることで、初めて価値あるアイデアを生める様に自ずとなってきたと思います。入社後は“無視されまくり”の完全アウェーな環境でしたが、粛々と大物Pにマーケティング施策を提案したり、小さな結果を積み上げていったりしたこともあってか、気付いたら私はそういった番組プロデューサーや総合演出の方々の黒子的な参謀的な役割を貰えるようになっていました。たとえば、日曜劇場のプロモーションやマーケティングの戦略を立てたり、レコ大のアーティストの出演順番まで考えたりと徐々によろず相談を頂ける様になってきました。番組プロデューサーの黒子として、最も効率的な視聴率アップの実現に向け、統計学を駆使した数々の施策や新しいメディアマーケティングの手法を試行錯誤をしながら展開しました。

例えば印象的だったことに、SASUKEの思い出があります。2桁の数字をとらないと打切りの可能性があった回に私が投入されました。おそらく入社当初は敵視されていたプロデューサーとのタッグだったのですが、そんなことも言ってられない状態でオファーがかかり、とにかく2桁とるためのマーケティング施策をバンバン企画し提示しました。相変わらずの運も働いてか奇跡的に2桁が実現し、そのプロデューサーの方から「ありがとう、お前のおかげで2桁とれた」と言ってもらえたときは泣きそうなくらい嬉しかったですね(笑)。今思うと大変ありがたいことに、TBSの看板番組に数多く携わるという、人生で貴重な経験をさせていただきました。そして今でもTBSの方々から個別にご相談を頂いたり、逆に相談にのって頂いたりと、TBSでも素敵な方々に多く出会えたことは感謝しかありません。

将来の独立を前提に、アクセンチュアへ転職。

私がTBS社内で担っていたのは、いわゆる“コンサルティング”だったと思います。これが、自身の性分にとことん合っていたと感じました。黒子なので表立って評価はされませんが、プロデューサーから相談される課題の難易度が高ければ高いほど、いつもワクワクしている自分がいました。思えば幼い頃から〝謎解き〟が大好きな子どもだったのです。たとえば、子ども時代に夢中になったのは、『頭の体操』という本。出題される〝なぞなぞ〟を解いていくには、いかに頭を柔軟にして視点を変えることができるか、いかに先入観を外して〝抜け道〟に気づくことができるかが重要なポイントでした。論理的だけでは解けない発想力も必要になるなぞなぞでした。また小学校の頃に父が大人買いで何冊も買ってきていたのでそれを兄と回し読みしていました。そのせいもあってか、学校の試験前の勉強方法も、いま思えば独特な自分なりに効率良い方法を考えて取り組んでいた感じです。私の場合、先に問題集の解答を切り取り、一通り眺めてしまいます。その過程でまずは普通の解き方(解答の方法)を先にインプットします。それがテスト直前の場合は、自分が解けなさそうな問題だけを認識し、そこだけ重点的に勉強します。テスト直前でもなく時間に余裕があれば残った時間は解ける問題の「別の解き方を探し出す」か「なんでこんな問題をだしたのか?」といったことを考えて遊び出すタイプでした。私が癖として身につけていた「物事を俯瞰する」「より効率的な課題の解決策を探す」「別の視点でみてみる」という習慣は、経営コンサルティングの業務にそのまま活かせる要素でもあったのです。ただし英語や暗記科目だけは手抜きはできないので、その後散々なことになってやるしかなかったのですが(笑)

自分が培ってきた知識やスキルがプロデューサーから求められ、さまざまな課題解決に挑み続ける日々は、非常にエキサイティングで楽しいものでした。今後はさらに大規模・高難易度のプロジェクトに飛び込んで、自分の可能性に挑んでみたい…。いつしか私は、独立・起業を志すようになっていました。とはいえ、まずは自社の競合になるであろう外資系コンサルティング会社(まだ遠いです)での実務経験を積もうと考え、一方で日本のコンサルビジネスの実態を“現地現物”で知ろうと考え(その方が自社の起業の際に事業の成功確度が高くなるから)、コンサルティングファームの門を叩いたのです。ありがたいことに、アクセンチュアに受け入れてもらい経営コンサルタントとして色んな角度で貴重な経験値を積むことができました。

F6 Design株式会社 代表取締役 山本 大平さん会社設立と、事業への想い。

2018年に予定通り無事に自分の会社F6 Design株式会社を創業しました。トヨタ、TBS、アクセンチュアの3社のうち、たとえ1社でもご縁がなかったとしたら、今の私は存在していません。社内外で沢山のご縁をいただき、それぞれの異なるカルチャーに触れたことが、今の私を形づくってくれました。特にマーケティング領域においては、TBS時代の経験が大きな礎となっています。私は主にその仕掛けを考案することが主務でしたが、チームで協力してマーケットそのものを大きく動かせたという成功体験は、自分のなかで「マーケティング」の定義が一変するほどのインパクトがありました。これほど面白いものは他に知らないので、この仕事(Marketをingする仕事)は経営者となった今でも、プレイヤーとしてもずっとやっていきたいと思っています。

今後の会社の展望として、上場させたいとか、そのような願望は今はまだありません。もちろん、お客様からのご要望にお応えできるくらいのキャパシティは整えたいと思っていますが、基本的には我々自らがとことん仕事を楽しんで、お客様から感謝されること。それが何より嬉しいし、私にとっての仕事観でもあり、それが二度目の人生における死生観なのです。

また弊社ではデータサイエンスに精通していますので、昨今需要の高いビジネスへのAI活用のご支援や、統計分析を駆使した独自のマーケティングメソッドによる経営コンサルティングをはじめ、競合他社にはない価値をお客様に提供できていると自負しています。もちろんTBSで培った直感力(霊感)もメディアマーケティングやブランディングの際には活用しています。お客様に喜んでいただける限り、死ぬまで、最強の黒子を同志と続けていきたいですね。

そのときに『F6 Design』という社名の6つの〝F〟に掲げた、「Future(未来)」「Faith(信頼)」「Freedom(自由)」「Fun(喜び)」「Fearless(立ち向かう)」「Flexibly(柔軟に)」という、我々の行動指針だけは忘れずに挑んでいければと思います。

最後になりますが、もちろん、4月にすばる舎より出版しました『トヨタの会議は30分』も大きなマーケティング“戦略”を仕込んでますよ(まだToBeマガジンさんや市場にも気付かれてないですが、ここは今は「口2耳8」のスタンスを保っておきます。この本はセルフブランディングや部数を売って印税収入で儲けるために出した訳でもありませんから(笑))。

 

◆ 編集後記 ◆

取材にお伺いする前に、山本氏による著書『トヨタの会議は30分(すばる舎出版)』を拝読した。彼は、新車開発のエンジニアとしてトヨタに新卒で入社し、TBSテレビ、アクセンチュアへと異業種への転職も成功させてきた人物だ。トヨタを出た山本氏が改めて、その価値を再認識したというトヨタ式「ビジネスコミュニケーション術」。それを、世界で初めて体系化したのが同書である。私自身、先日もオンライン会議の時間を、特に理由もなく「1時間」で設定していたことを思い出し反省…。また、「1分でOKをもらえる資料のつくり方」など、若いビジネスパーソンが上司に対して即実践できそうな具体的な方法も知ることができ、非常に参考になった。

さて、山本氏は昨今、とある就活サイトが運営するサービスのアドバイザーをきっかけに、学生や就職したばかりの若者の相談に実際に会ってのってきたそうだ。そのなかで、「安定」という言葉に執着する日本の学生や新社会人が多いことを、非常に気にされていた。それもそのはず…。企業の寿命はますます短くなり、老後の年金も、若い世代には期待が持てない。「不確実な時代」だからこそ、少しでも「安定」らしきものを手にして安心したいのだろう。しかし、若い世代の大半が世間で使われている定義の「安定志向」になった国に、果たして未来はあるのだろうか。そのことに、山本氏は強烈な危機意識を持たれているようだ。幼い頃、彼は祖母から戦争の話をよく聞かされたという。墓参りに行くといつも最初に戦死者の墓にお参りをし、「この人らのおかげで、今のあんたらがおるんやで」と、何度も言って聞かされた。祖母自身、3人の兄弟を戦争で亡くしていたのだ。戦後、焼け野原から復興した日本には、凄まじい勢いがあった。もはや何も失うものがないほど、終戦直後の日本は失い尽くしていたのだ。後ろが崖っぷちなら、人間は前へ進むしかないと山本氏は言う。平成までの私たちは、先代の人々が築き上げてきた貯蓄のおかげで、なんとか生き延びることができた。しかし、これからの世の中は違う。グローバル化、デジタル化が急速に進んだ今、若い世代のライバルは、地球の反対側にいる若者かもしれない。情報や頭脳で闘う時代となった今、世界の人々に、機会は意外と平等に与えられているのだ。このままだと日本に、おそらく勝ち目はない。後ろは崖っぷちだ!つまり、このタイミングで出版に至った山本氏の意図には、日本の若者たちに、どこでも通用するビジネスコミュニケーション術という名の〝武器〟を授けることも含まれていたように思う。日本のボトム(若者)から変革を起こそうという彼の試みは、ベストセラーという結果の先に、きっと実を結んでいくことだろう。また、著書を読み進めるほどに、山本氏の深いトヨタ愛が感じられる。創業以来、トヨタがずっと受け継いできた魅力的なカルチャーを失って欲しくないという願いも読み取れた。TBSのスペシャルドラマ「Leaders(リーダーズ)」でTBSのドラマ制作部の一員としてトヨタを深く取材し、番組作りに貢献した経験もあるからだろう。ぜひ一度、著書を手にとられることをお勧めする。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2021年8月30日