1934年創業のバルコは、ベルギーにてラジオの製造から事業を開始。現在では、ディスプレイ技術、プロジェクション技術、コラボレーション技術を核に、「エンターテイメント」「ヘルスケア」「エンタープライズ」領域における可視化ソリューションを牽引するグローバルなテクノロジー企業である。販売拠点は、世界90ヵ国以上。2019年の連結総売上は1,000Mユーロを超え、従業員数 約3,600名、400を超える特許を取得している。今回は、日本法人(バルコ株式会社:1995年設立)の代表取締役社長を務める加藤氏にお話を伺った。本稿では、バルコの歴史やビジョンはもちろん、加藤氏ご自身のキャリア形成や哲学にわたるまで、他メディアでは知ることのできない貴重なインタビューをお届けしたい。

バルコ株式会社ベルギー発、先進の可視化ソリューションを提供するテクノロジー企業。

BARCO(バルコ)の社名は、Belgian American Radio Corporation(ベルジャン・アメリカン・レディオ・コーポレーション)の頭文字を並べたもの。その名の通り、ベルギーにてラジオの製造から事業を開始した会社です。創業者がアメリカから輸入したラジオ部品を家具のなかに組み込み、販売を始めたのが最初のスタートです。その後もテレビの製造販売を行うなど、当初はBtoC領域において、ベルギーの人々の生活に深く根付いてきたブランドでした。現在では、医療画像、メディア&エンターテイメント、インフラストラクチャー&ユーティリティー、教育&トレーニングなど、世界の業務市場向けに可視化ソリューションを開発・設計しているテクノロジー企業へと成長しています。

皆さんにとってイメージしやすいバルコ製品には、映画館の大型プロジェクターや、プロジェクションマッピング用の映写機が挙げられるでしょう。実は、世界の映画館のプロジェクターのうち、約50%がバルコ製。IMAX(大画面)の映像は全て弊社のプロジェクターから投影されています。意外と知らないところで、皆さんの生活に存在しているブランドなのです。最近の事例では渋谷フクラス2F(旧東急プラザ渋谷)に設置された、渋谷の新たな待ち合わせスポット『GMOデジタル・ハチ公』にも、弊社のディスプレイが導入されています。壁一面に広がる高精細な映像が、人々を魅了するデジタルアート空間を演出しています。このように、弊社は先進の可視化ソリューションとユニークな製品を強みに、医療の向上、働き方の改革、感動体験の創出にわたるまで、世界中の業務市場の最適化に取り組んでいる企業です。

小学5年生から大学卒業まで、テニスに没頭した日々。

バルコ株式会社 代表取締役社長 加藤 浩典さん生まれは東京、横浜育ちです。小学5年生のときにテニスを始めました。きっかけは偶然、母が通うテニスクラブに連れていかれたこと。それまでは、野球やサッカーのほうに親しんでおり、テニスといえば何となく、〝女性のスポーツ〟。しかし、この日を境にすっかりハマってしまった私は、大学を卒業するまで、テニス三昧の日々を送ることになります。小学6年生のとき、通っていた小学校に硬式テニス部が発足しました。あの当時、「硬式」のテニス部がある学校は非常に珍しく、私は記念すべき初代メンバーとして入部。あの松岡修造氏とは1年間同じチームで練習していました。(彼は当時から世界ジュニアで活躍しており、既にレベルが違いましたが・・)時はちょうど、日本に〝テニスブーム〟が到来する直前。ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローはじめ、初期のテニスブームを支えたスーパースターたちが、後に続々と生まれた時代です。日本でトーナメントが開催されるようになった頃には、街なかでラケットを持ち歩くことがファッションになるほど、人気のスポーツになっていました。

バルコ株式会社 代表取締役社長 加藤 浩典さん学生時代の記憶といえば、ほとんどテニスにまつわる想い出ばかりです。高校時代には、全国選抜準優勝・関東選抜優勝(いずれも団体戦)、大学は体育会に所属と、半分以上の時間をテニスコートで過ごしていた感じです。テニスを始めたばかりの頃、ラケットを握るだけでも歓喜していた純粋な気持ちは、いつしか形を変えていきましたね。思い出すのは、タイブレークで負けた瞬間や、個人戦の本選進出を逃したゲームなど、悔しい記憶のほうが圧倒的に多いです。

忘れられない想い出は、大学4年生の1年間、女子テニス部のコーチに任命されたこと。彼女たちが目指すのは、1年間の総決算である『早慶戦』での勝利でした。当時の慶応大学女子は早稲田に連敗を許し続けていました。「打倒!早稲田」を掲げて、朝から晩まで彼女たちと練習に明け暮れる日々。早慶戦の前日には夜になるまで試合のメンバー決めを議論し、最終的には私が決定して試合を迎えます。結果的に、その年の早慶戦は悲願の勝利!大号泣するメンバーの姿に、思わず私も貰い泣き…(笑)。このとき初めて、私は人を育てる楽しさを知ったように思います。仕事においても、自分が期待をかけ、努力する姿を見守り続けてきた人間が成果を出したときには、実に嬉しいものですね。

画像や映像の魅力を教えてくれた、父親の存在。

私が物心ついた頃から、父はカメラ店を営んでいました。かつてはカメラマンとして、ロンドンオリンピック(1948年開催)の撮影も手がけたと聞いています。父の職業柄、家にはいつも写真が溢れていました。小学生時代、PENTAXの一眼レフを買ってもらったことも、よく覚えています。思えば幼い頃から、画像や映像が身近にある環境にいました。高校1年生のとき、父が49歳で他界しました。祖父のサポートもあって学業は継続出来ましたが、「自立しなければ」という意識が、初めて芽生えた瞬間でした。母がそれから働き始めたのも、私と2人の妹を養うため。面と向かっては照れくさくて云えませんが、母には心から感謝しています。

人生の転機となった、米スタンフォード大学への留学体験。

朝から晩までテニスに明け暮れていた私の成績は、学生時代を通して、決して良いほうではありませんでした。もとは英語も大嫌い!まさか自分が外資系企業で働く未来が待っていたとは、当時は夢にも思いませんでしたね。

ちなみに人生初の海外渡航は、大学2年生のとき。留学中の親友を訪ねて短期間のアメリカ滞在を経験しました。文化の違いはもちろん、アメリカのスケールの大きさには度肝を抜かれました。そこから時を経て大学4年生のとき、慶応の交換留学プログラムに応募し選考を通過した私は、米スタンフォード大学へ2ヵ月間留学する機会を得たのです。このときの経験が、大きな転機となりました。留学先で何より驚いたのは、スタンフォードの学生たちが、猛烈に勉強すること!日本の学生とは比較になりません。また、講義のスタイルも、日本のそれとはかけ離れていました。日本では、大勢の学生に対して、教授が一方的に講義を行うのが一般的です。一方で、私がアメリカで経験したのは、10~20人程度の学生が、教授とインタラクティブに意見交換を行う、積極参加型の講義スタイルでした。一人ひとりが臆することなく意見を述べ、学生たちが率先して講義を引っ張っていく姿は驚き!講義の間は1ミリたりとも気が抜けないので、しっかり準備をして臨む必要がありました。また、1990年代当時、スタンフォードの学生は寮の部屋に一人一台アップルのPCを持っていました。日本人のほとんどがパソコンに触ったことさえない時代に、彼らは学内のネットワークを使って、メールのやりとりをしていたのです!たった2ヵ月間の留学でしたが、このとき味わった衝撃は、それまで海外志向が希薄だった私の意識を目覚めさせるほどのインパクトが十分にありました。

バルコ株式会社 代表取締役社長 加藤 浩典さん新卒で、第一志望のソニーに入社。

私にとってソニーは、物心ついた頃からソニー製品が身近にあったこともあり、小さい頃からあこがれの会社でした。中学2年のクリスマス、父から『ウォークマン』を買ってもらったときは、本当に嬉しかったものです。当時の価格で33,000円ですから、非常に高価なプレゼント。あまりの喜びに、朝から晩まで音楽に浸っていましたね。また、BCL(Broadcasting Listening :国際放送を受信して楽しむ趣味)が流行ったときには、ソニーの短波ラジオ『スカイセンサー』に張り付き、海外の放送局を聴いて受信報告書を送っては、返送されるカードを心待ちにしたものです。テレビは『トリニトロン』、ビデオデッキも『ベータマックス』で、家中にソニー製品がありました。創業者の盛田昭夫氏の著書『MADE IN JAPAN』も何度も読んでいましたし、就職先の第一志望にソニーを掲げるのは当然の流れだったのです。

自分は海外で活躍する人材になる…!そう意気込んでいた私は、ソニーの9月入社制度に応募しました。将来的に海外で活躍する人材として会社に貢献できるよう、入社前の半年間、ぜひ語学留学をさせて欲しいと人事にプレゼンしたのです。念願かなって、米ジョージア工科大付属の英語学校へ留学。半年間で、ようやく人並みの英語力を習得することができました。社会人になると、まとまった時間を確保するのは非常に困難になります。入社前に留学の機会を持てたことは、非常に幸運でした。このときの自らの選択が、ソニーでのキャリアはもちろん、現在のキャリアにも繋がっているのだと感じています。

前のめりで獲得した海外赴任のチャンスと、現地での苦悩。

入社直後に配属されたのは、国内法人向けの営業部隊でした。入社前の希望は海外営業や経営企画で、しかも私にとって「ソニー」といえば、コンシューマー向けの製品。いったいどんな仕事をするのか、見当もつきませんでした。まずはBtoBの営業として新人時代をスタートしましたが、業務内容は、企業や官公庁にソニーのシステムを提案したり、ソニー特約店のビジネスをサポートすることです。学校やプロダクションなど、業界のプロフェッショナルの方々と接するなかで、貴重な学びをいただきました。

国内営業職でありながら、私が個人的にこだわっていたこと。それは、自分の名刺に英語表記を加えることでした。そして、隙あらば英字新聞を小脇に、「いつかは海外」という目標に向け、虎視眈々と準備をしていたのです。そのチャンスは、入社5年目でついに訪れます。社内のICP(インターナショナル・キャリア・プラン:海外赴任の社内公募プログラム)に応募した結果、見事に選考をクリアしたのです! 赴任先は、ソニーオーストラリア。それこそ「カンガルー」程度しか予備知識のなかった初訪問の国で、2年半にわたる駐在生活が始まりました。念願の海外赴任が叶ったわけですが、最初の1年間は苦労の連続…。海外赴任経験ゼロ、語学力も不十分なまま、初めて訪れる異国の地で、いきなりプロダクトマネージャーを任されたのです。小さな事業所だったこともあり、同じチームに日本人の頼れる人は他にいません。つたない英語力で、現地の放送局やケーブルテレビ、ディーラーに向け、プロダクトの説明を求められました。毎日が本当にしんどくて、こんなに明るい国にいながら、自分はノイローゼになるのではと心配しました(笑)。2年目からは、ようやく現地人や英語にも慣れ、オーストラリアの文化や魅力を味わう余裕が生まれていました。

ソニー退職から、想像もしていなかった未来へ。

バルコ株式会社 代表取締役社長 加藤 浩典さんソニーに勤めた20年間は、私にとって掛け替えのない経験そのものでした。やりたいことに存分にチャレンジさせていただき、今でも変わらず大好きな会社です。そんな居心地の良かった環境を、あえて飛び出した理由。それは、勤続20年を節目に、「大企業の歯車ではなく、自らの手でビジネスをドライブする立場で仕事がしたい」…そんな想いが芽生えたからです。

2011年、ご縁があってローランド株式会社に転職。シンセサイザーや電子ドラムといった電子楽器に加えて業務用映像・音響製品を事業領域とし、製品開発力がユニークで魅力の会社です。海外も含めた業務用機器の営業とマーケティングを担当しましたが、そのプロセスの中でプロダクトプランニングからP/L管理等を含むビジネス全体のマネジメントを手がける立場で仕事ができたのは、ソニー時代にはなかった経験です。

ソニーとは、もちろん会社の規模も違いますが、何よりカルチャーが異なる点が興味深かったですね。自ら音楽活動をしているメンバーが多く、とにかくローランド愛が強い!自社製品をいかに改良し、広めていくかに対する熱意に満ちているのです。私については、フォークもエレキも早々に挫折しており、楽器こそダメでしたが、自分が確信を持てる製品を扱うこと、その魅力を広めていくことへのパッションは、彼らと共通していました。思えば就職活動をする際にも、金融のような実態の見えにくい分野よりも、自分自身がいちばんのファンであると胸を張れるようなプロダクトを持つ業界に惹かれていました。これまでも現在も、そのような環境で仕事をさせていただけることに、非常に幸せを感じております。

2016年、ドイツに本社を構えるディーアンドビー・オーディオテクニック社とのご縁をいただき、日本法人の代表取締役に就任しました。コンサートホールや劇場向けの業務用ラウドスピーカー領域において、世界トップクラスの実績を誇るオーディオ・ソリューション・プロバイダーです。私が入社した当時は、従業員もまだ7名程度でビジネスも代理店頼みだったため、その再構築に一から奔走し、倉庫の片付けや財務会計の見直しから営業・マーケティング人材の採用、販路の開拓、Webサイトの構築にわたるまで、会社のフレームワーク全体を手がける新たなチャレンジとなりました。

2年かけて会社の再構築に一定の目途がつき、いよいよこれから、という時にバルコから入社のお声がけをもらいました。他の会社でなければその気は全くなかったのですが、私にとってバルコという名前はソニー時代から親しみのある憧れのブランドで、たとえば業務用のプロジェクターの領域では日本のブランドを差し置いて、その高いパフォーマンスや実績において、他のブランドと一線を画していました。バルコ製品に対する敬意とトキメキが、私のなかに原体験として存在していたのです。さすがに運命的なものを感じて、転職を決意。自分がまさか、かつては憧れの存在だった企業の日本法人の代表になるなんて、人生とは不思議なものですね。

バルコ株式会社 代表取締役社長 加藤 浩典さんバルコならではの強みと、今後のビジョン。

バルコの使命は、先進の可視化ソリューションの提供により、医療の向上、働き方の改革、感動体験の創出にわたるまで、世界中の人々のQOL向上を実現することです。弊社には、画像の取り込みから生成加工、表示、管理にわたるまで、すべてのプロセスを統合させた革新的な可視化ソリューションの開発・設計ができるという技術的な強みに加え、インターナショナルな事業展開、業務向け市場における豊富な経験と実績もあります。個人的には、これまでになかった製品、新たな発想やコンセプトのプロダクトを生み出し、市場そのものを創造していくところに、バルコならではのユニークな魅力があると感じています。たとえば、日本においてトップシェアを獲得している、ワイヤレスプレゼン機器『ClickShare(クリックシェア)』という製品。こちらは、企業におけるミーティングの質を劇的に向上させる、革新的なツールです。ディスプレイと複数のPC間の接続を無線化できるので、たとえば会議でプレゼンを行うとき、PCに挿したClickShareボタンを押すだけで、PC画面をワイヤレスでディスプレイに投影できます。発表者の切り替えもワンクリックで可能になり、スムースで生産性の高い会議が実現できるのです。昨今では、新型コロナウィルスの影響で働き方が多様化し、リモートワークを導入する企業も増えています。弊社が新たにリリースした『ClickShare CXシリーズ』は、リモートワーク環境にも対応しています。専用ボタンをPCに挿すことで、カメラやマイク、スピーカーフォン、サウンドバーなどが接続されたUSB機器をワイヤレスで操作できるようになり、ワンクリックでリモート会議を始めることを可能にしています。

日本においてビジネスを拡大できる余地は、大いにあると考えています。引き続き、「エンターテイメント」「ヘルスケア」「エンタープライズ」領域をメインに、人々のより豊かな生活に貢献できる未来を描いて、挑戦を続けてまいります。

 

◆ 編集後記 ◆

「自分にまさか、かつて憧れていたブランドで仕事をする未来があったとは、夢にも思いませんでした」…。バルコの日本法人代表への就任劇を振り返り、そう語る加藤社長。しかし、現在のキャリア形成に至った経緯を詳しく伺えば、それはきっと、何ら不思議ではないギフトであったと筆者には思えた。なぜなら、いつ訪れるか知り得ないチャンスに対して、加藤氏は常に準備を怠らず、いざその瞬間が来たときには、確実にそれをモノにする行動を、一貫して選択してきたからである。たとえば、大学時代。交換留学プログラムに自ら手を挙げ、米スタンフォード大学へ留学したこと。また、ソニー入社前にも、9月入社制度に応募し、半年間の留学を経験したこと。入社後も、国内営業でありながら、名刺に英語表記をプリントしていたエピソードなど。常に未来志向でプロアクティブに行動を起こし、実力を磨いてこられた。だからこそ、然るべきタイミングで周囲からお声がかかり、新たなキャリアを歩んでこられたのだと感じた。

さて、ソニー時代からパスポートの増刷を繰り返すほど、世界中を飛び回り、キャリアの最前線を走り続けてきた加藤氏であるが、昨今では、人生における時間の貴重さを強く実感しているそうだ。時間は誰に対しても平等であり、二度と取り戻せないもの。ご自身が若いときには気づけなかったからこそ、社員にも大切なメッセージとして伝えているそうだ。

また、インタビューを通じて、加藤氏からはバルコのブランド、製品に対する深い敬意が感じられた。今この瞬間を大切に生きようと思えば、仕事の効率化や趣味を楽しむこと、家族と大切な時間を共有することはもちろん、自分の愛する仕事ができることは非常に重要である。個人的にもぜひ参考にしたい、貴重なお話を伺うことができた取材であった。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2021年2月8日