延長保証制度の設計・運用・コンサルティングを行うテックマークジャパン株式会社。同社は2020年8月に創業26周年を迎えた、日本における「延長保証」業界の先駆者である。2019年末現在、同社の延長保証契約件数累計は約1億4981万件、修理精査件数累計は約988万件に上る。1920年代後半~1930年前半頃にアメリカで生まれたビジネスモデルを、日本の市場に合わせてカスタマイズし、第一線で普及を進めてきた。普及拡大の契機となったのが、かつては消費者のメリットを中心に語られてきた延長保証に、企業が顧客を育てるための「マーケティング手法」としての価値を創造した、代表・将積氏のアイデアである。本稿では、延長保証の「マーケティングツール」としての側面と可能性を紹介するとともに、他メディアでは知ることができない将積氏の生い立ちから個性的なキャリア、独自の視点にわたるまで、貴重なインタビューをお届けしたい。

創業26年、延長保証業界の先駆者として。

テックマークジャパンは、日本における延長保証サービスの先駆者的存在です。あらゆる電化製品・デジタル製品には、ほぼすべてメーカーによる基本保証、「メーカー保証」が付帯されています。「延長保証」とは、メーカー保証期間終了後の一定期間、製品の自然故障・不具合の修理を無償で行うサービスです。皆さんも、日ごろ当たり前のように使っていた電化製品が、急に動かなくなったり不具合が生じたりで、困ってしまった経験はありませんか。慌ててメーカーの保証書を確認しても、製品の種類にもよりますが、保証期間は「1年」がほとんど。保証期間を過ぎていたら、自ら販売店に問合わせたり、修理を依頼したりしなければなりません。急を要する場合でも、その場では修理可能かどうかも、どれだけの費用や期間がかかるのかもわかりません。このように、メーカーの保証期間が過ぎても、少なくとも平均的な製品寿命の間は安心して使い続けたいという消費者のニーズに応えるのが「延長保証」です。メーカー保証期間終了後の一定期間、取扱説明書に従って使っていたにもかかわらず発生した故障に対して、簡単に修理申込みが出来て、かつ部品交換などの修理が無償で行える安心の仕組みが「延長保証」なのです。

日本における「延長保証」ビジネスの軌跡。

テックマークジャパン株式会社 代表取締役社長 将積 保博さん当社は1994年8月に創業以来、日本における延長保証制度の運営とコンサルティングを行ってまいりました。「延長保証」はもともと、アメリカで生まれたビジネスモデルです。日本での普及が始まったのは、欧米で普及してから数十年遅れた1990年代半ば以降。しかし、日本で本格的に普及するには、やや時間を要しました。その背景には、日本独自の「モノを大切に扱う習慣」や、「日本製」に対する信頼感の高さから、「有料で延長保証を付ける」という習慣が根付きにくかった点が挙げられます。また、大手メーカーの販売店が全国を網羅しており、故障対応を「無償のアフターサービスの一環」として位置づけていたことで、消費者もそれを当然として受け止めていました。たとえメーカーの保証期間が過ぎていても、なじみの電気屋さんから製品を無償で修理してもらうという光景は珍しくなかったのです。日本で浸透するきっかけになったのは、家電量販店が「ポイント」を活用した延長保証を付帯する施策を始めたことでした。「ポイント」を利用して延長保証が付けられるので、消費者の「お金を払う」という意識が薄れ、製品購入時に付帯する人が増えていったのです。

一方、初期に普及が進んだ家電量販店や自動車ディーラーの販売現場では、延長保証を「製品販売後のアフターサービスの一環」として捉えているフェーズにあり、製品販売時に延長保証の価値を熱心に説明しおすすめできる体制は整っていませんでした。しかし、延長保証には、消費者サイドのメリットはもちろん、メーカー・販売店サイドにも、実は大きなメリットが存在するのです。このメリットをメーカー・販売店のみなさまにご理解していただくために、当社は多くの取り組みを行ってまいりました。

延長保証は、顧客を育てる有用なマーケティングツール。

この10年ほどで延長保証の普及は加速し、生活家電を購入する消費者の認知度は70%超、製品購入時の加入率は30%を超えています(テックマークジャパン調べ)。この流れにより、ある傾向が明らかになっています。たとえば、延長保証に加入している消費者は、非加入の消費者よりも来店頻度が高く、また、他の製品の購入にも繋がりやすいという現場の声もあります。延長保証によってメーカーや販売店との継続的な関係が構築されることで、いわゆる「一見さん」の消費者ではなく、「ひいき客」になってくれるのです。つまり、延長保証の導入は、「アフターサービスの充実」という消費者サイドのメリットをもたらすだけでなく、「ロイヤルカスタマーの獲得」という、メーカー・販売店の成長戦略には欠かせない、重要な役割を果たしているのです。

業界の第一線を走ってきた、テックマークジャパンならではの強み。

延長保証は、メーカーや販売店ごとに制度設計を工夫し、適切な運営を行うことで、優良顧客を呼び込む有用なマーケティングツールになります。当社では、1億4980万件を超える保証制度と、988万件以上の保証修理の実績により、膨大なデータを蓄積してきました。そのデータをもとに定量的・定性的分析を行い、精度の高い修理費用の予測とコントロールを実現しています。これらのノウハウを活用し、法人向けの保守費用のコンサルティングも提供してまいりました。各々のクライアントのニーズやビジネス状況に合わせて、環境変化に対応しながら、長期にわたって安定運用できる延長保証プログラムを構築できること。これが、当社ならではの強みといえます。

「壊れたら直す」から、「壊れる前に直す」時代へ。

昨今は、自動運転車やAI家電など、高度かつ繊細な技術を搭載した製品が増えています。“壊れる=クリティカルダメージに繋がる”可能性も高く、今後は延長保証の領域も、「壊れたら直す」から「壊れる前に直す」という、メンテナンスと融合させた概念への転換が求められるようになるでしょう。長年、延長保証サービスを提供してきた我々は、さまざまなメーカーの膨大な製品データを保有しています。これらのデータを活用し、たとえば故障前に機器の不具合を察知できれば、人々の快適な生活や安全を守るうえで、さらなる貢献が可能になります。また、あらゆる製品を長く使い続けたいという消費者のニーズに応えるために、家電や自動車などの従来の領域に加え、新たな保証分野の拡大に努めているところです。当社では近年、「楽器」や「眼鏡」の延長保証を開始しました。製品を販売して終わりではなく、顧客が継続的に店舗へ立ち寄る接点を創出したことで、非常に好評をいただいています。前例のない領域に進出するには数々の困難が伴いますが、延長保証の価値を世に広めていくためにも、チャレンジを続けていきたいと思っています。

運動が得意だった小・中学生時代、異文化交流に親しんだ高校生時代。

テックマークジャパン株式会社 代表取締役社長 将積 保博さん出身は、兵庫県神戸市です。地元に本社のある一般企業の会社員の父、専業主婦の母のもと、一人っ子として育ちました。摩耶山の登山口近くの小学校で低学年を過ごし、高学年は六甲山の登山口付近の小学校に通っていました。当時は学校から帰るとランドセルを放り投げ、友達と原っぱで野球をしたり、ときには水筒を持って六甲山の頂上まで登ったりしました。神戸港を見下ろし、船が端から端まで移動するのを、ぼんやりと眺めるのが好きでしたね。おかげで足腰が強くなったのか、足は速いほうでした。当時の神戸市内には多くの教会があり、日曜日に訪れると、キリストの絵葉書とクッキーをもらうことができました。クリスチャンでもないくせに、それを目的によく通っていましたね(笑)。教会へ行っては、外国人の神父と会話をしていた幼い頃の記憶があります。母も教会を通じて交流を広め、自宅でフランス料理教室やフラワー教室を開催していました。

中学校は受験をして、西宮にある私立の中高一貫校へ。中学・高校はテニス部に入りました。同級生約180名の成績が、トップからビリまでしっかりランキングされる中学だったので、真面目に勉強しなければならない環境でしたね。中学3年生のある日、私は右の後頭部に大ケガを負い、約2ヵ月の入院生活を余儀なくされました。そこから体調を1年ほど崩してしまい、思うように運動ができなくなってしまったのです。もともと足も速かったのに、中学時代のようにはいかなくなり、当時は非常に悩みましたね。そんな折、同級生の友人がESS(英会話研究会)に誘ってくれたのがきっかけで、再び明るい兆しが見えてきました。当時のESSは存続の危機に瀕しており、文化祭などでも、講堂は常に音楽関係の部に押され、まったく勢いを失っている状況でした。私を誘ってくれた友人は、英語弁論大会などでも常に入賞していた有名人。彼から「一緒にESSを立て直そう!」と誘われ、私は男子校に通っていたこともあり、ESSの交流部会に出れば女子高メンバーと話せるという下心で、まずは参加してみることにしたのです(笑)。高校2年のときにはESSのメンバーで映画を撮り、文化祭で作品を公開。それが好評となり、2回の上映スケジュールが6回まで増えたのです。結果的に、ESSの発展に貢献することができました。とはいえ映画の内容は、そのとき流行っていたブルース・リーのカンフー映画『燃えよドラゴン』のマネ。実際には、英語の練習が2割、アクションの練習が8割だったんですけどね(笑)。ちなみに私をESSへ誘ってくれた友人は商社の社長の息子で、自宅で開催されるパーティーにも、私をよく招いてくれました。取引先の外国人ゲストに、私が日本の歌を英語にして歌うと、非常に喜ばれたものです。友人がもたらしてくれた新たな交流が、私の高校生活を充実したものに変えてくれました。

大学の卒業旅行は、憧れ続けたアメリカへ!

大学は、慶應義塾大学商学部へ。私は一人っ子だったこともあり、親は東京へ出ることを望んでいませんでしたが、ひとり横浜のボロアパートでの下宿生活が始まりました。大学生になって、初めて真面目に勉強したのが会計学。自分が会社勤めをするという未来が想像しにくかったせいか、わかりやすく独立できるイメージとして、会計士を目指していたのです。テレビも買わずに、会計学の専門学校に通ったり、研究会に入ったりと、熱心に勉強していました。後には、会計士の多くが事務所勤めで、サラリーマンと変わらないことがわかってきたのですが…。

大学時代によく聞いていたのが、FEN(在日米軍向けのラジオ放送)でした。そのおかげで、自然と英語のヒアリング力がついたのだと思います。当時はアメリカへの漠然とした憧れがあり、いずれ行ってみたいと願っていました。家庭教師などのバイト代を貯めて、初めて渡米したのは卒業旅行のとき! 1ヵ月間、バックパックの旅をしました。2人の友人と、現地で合流したり解散したりの自由な旅は、刺激的で実に楽しいものでした。特に印象深いエピソードは、『ニューオリンズ・マルディグラ』という有名なカーニバルに、一人で訪れたときのこと。事前にホテルを予約していたのですが、着いてみたら、なんと勝手にキャンセルされていたのです! ホテルにとっては、カーニバル期間は一番の書き入れ時。恐らく、私より高い値段で泊まってくれる客がいたのでしょう。途方に暮れた私が歩いていると、とあるバス停で、ノースカロライナから来た牧師に出逢いました。彼に事情を説明すると、「今晩の宿を見つけるなんて到底ムリだし、こんなところで寝ていれば警察に連れていかれるから、私と朝まで話し続けよう!」と、意外な提案をしてきたのです。承諾したのは良かったものの、私の英語力はそこまで高いわけではありません。ポケット辞書を片手に、言いたいことを伝えるのも、相手の話を理解するのも一苦労。しかし、夜が明ける頃には、かなり英語力が上がったような気がして、その後の旅路はだいぶ強気になれましたね(笑)。

念願のニューヨーク駐在で経験した、かけがえのない出逢い。

就職先は、大手生命保険会社に決まっていました。いま考えると非常に恥ずかしいのですが、「入社したら、ニューヨークなどの海外拠点でガンガン働きたいです!」と、面接で意気込んで言ってのけたのです(笑)。入社してから知ったのは、ニューヨーク支店に配属されているのは、社員1万2千名のうち、たったの12名という事実。それを聞いて、さすがに愕然としましたね(笑)。入社後は、営業を6年間経験した後、国際投資部へ。それから2年ほど経った1991年、念願のニューヨーク支店への配属が決まったのです。入社10年目、30代前半のことでした。私が渡米した頃は、ちょうど日本のバブルが崩壊し、湾岸戦争後のアメリカも、リセッションのド真ん中にありました。1992年の大統領選を経て、クリントン政権が誕生した時期です。クリントン大統領とゴア副大統領は、大統領選挙期間中に「すべての家庭、企業、研究室、教室、図書館、病院を結ぶ情報ネットワークをつくる」と公約し、大統領当選後の1993年に、シリコンバレーでアメリカの産業競争力強化のための『情報スーパーハイウェイ』を2015年までにつくるという構想を発表しました。あの頃は、スマホはもちろん、ガラケーもインターネットもなかった時代です。私自身、当時は辞書のように大きな携帯電話や、立ち上がるのに5分もかかるような特大のコンピュータを買ったことを覚えています。

テックマークジャパン株式会社 代表取締役社長 将積 保博さんニューヨークでの私の任務は、主に2つ。1つは、生保本体の資金を、主にアメリカ株に投資して運用する、ファンドマネージャーの業務です。投資先は主に、上場企業の大型株。また、ベンチャーキャピタリストとして、未上場の会社も含む新興企業投資も行っていました。もう1つの任務は、出資先の米国証券会社に生保本体から役員が入っていたので、彼らの実務面をサポートすることです。現地では、仕事を通じて実に貴重な機会を得ることができました。あの当時、フィデリティ・インベストメンツのファンドマネージャーとして、マゼランファンドを世界最高の投資信託ファンドへと導いた有名な投資家、ピーター・リンチにも面会する機会に恵まれたのです。また、これから上場を目指す新興企業に投資したり、日本企業とのマッチングを設定したり、成長企業の発掘をしていくベンチャーキャピタリストの仕事は、特に刺激的で、かけがえのない経験でした。後にグローバル企業へと急成長を遂げたマイケル・デル(デルの創設者)とも面会しましたし、ジェフ・ベゾス(Amazon.comの創設者)と、ランチを共にした日もあったのです。当時のAmazon.comはまだ、書籍のインターネット販売業で起業したばかり。私には、ベゾス氏との間で、今も強く印象に残っている会話があります。「最近あなたが買った本は?」という質問に、『ザ・アスレチックスイング』というゴルフのレッスン書だと答えた私に、彼はこのように言ったのです。「あなたの趣味はゴルフですよね。今度もし、あなたのもとにゴルフ用品が安く入手できる情報が届いたら、きっと喜んで見るのではありませんか? 書籍の販売は、あくまで入口なのです。僕は〝本〟だけで一生を終えるつもりはないですよ」…と。彼の言葉通り、Amazon.comはその後、世界を席巻する大企業へと成長を遂げたのです。

さまざまなパーティーに招かれたり、次から次へと人脈を紹介してもらったり…。数々のカルチャーショックや刺激に満ちたニューヨークでの駐在生活は、それまで見ていた世界が一変するほどのインパクトを、私の人生にもたらしてくれました。とにかく日本とは、まったく常識が異なるのです。たとえばアメリカでは、「CEO」は「CEO」として、「CFO」は「CFO」として、キャリアを渡り歩くのが一般的です。しかも、その人事は、各々のネットワークのなかで行われる仕組みが、しっかり根付いていたのです。また、アメリカ人の凄さを改めて思い知らされた、印象的なエピソードもあります。出資先の米国証券会社に、次期の役員候補といわれる優秀な若手が2名いました。しかし、役員への昇格を目前に、なんと2人とも辞めてしまったのです! 聞けば、「ある程度の実力がついたのなら、やはり起業しなければ!」…と言うのです。大企業の役員のキャリアさえ、あっさり放り投げてチャレンジするのか…。いずれは自分も何かやりたい。そう漠然と考えていた私ですが、「これは自分もやらなきゃ!」と、背筋が伸びる思いがしましたね。

43歳で、メディカル関連ベンチャーを創業。

自分が起業するなら、既存のビジネスモデルではなく、まだ世の中にないビジネスをデザインして勝負してみたい…。ベンチャーキャピタルの仕事を通じて数々の新興企業に出逢った私は、いつしかそんな夢を描くようになっていました。自分で事業を手がけたいと考えたのは、投資先が成長してどれだけ儲かったとしても、自身の手応えや実感を十分に得ることは難しかったからです。起業したのは2000年、43歳のとき。商社の社長を継いだESS時代の友人の協力を得て、日本でメディカル関連のベンチャーを立ち上げました。アメリカでは「予防医学」の概念が進んでおり、「健康食品」の領域は、日本においてもこれから成長が見込めるマーケットでした。私たちは、日本での混合診療(保険診療と保険外診療の併用)の自由化に向けて、医療現場への「サプリメント」の導入を考えていました。取扱うサプリメントは、アメリカの研究団体により、医学的なエビデンスに基づいてつくられた製品。大手新聞社系列の専門メディアとタイアップを行うなど、さまざまな取り組みを行いましたが、日本の混合診療の自由化は当初の見込みほどは進まず、数々の軌道修正が必要となりました。今でも忘れない最大のピンチは、1年かけて開発したサプリメントが、いよいよ輸入という段階になって、日本の税関を通過できないことが発覚したことでした。ときはちょうど、「狂牛病」が世間を騒がせていた頃。日本は当時、アメリカからの牛に関わる食品の輸入を禁止していたのですが、なんとサプリメントを構成する「カプセル」に、牛のゼラチンが使われていたのです! 大きな投資をして、ようやくできた成果物が、まさか輸入できないという事態になり、まるで天国から地獄へ落されたような心地がしました。結果的に、既製品は東南アジアへの販路を見出し、なんとか資金を調達。新たに製造するものに関しては、インドの水牛から造られたカプセルを取り寄せることで、難局を乗り越えることができました。このときの経験は、自分ではどうにもできない状況に陥っても、なんとか生き延びる力を私に与えてくれました。転んでもタダでは起きない。道は必ず拓けるものです。

延長保証サービスに将来性を見出し、新たなチャレンジへ。

テックマークジャパン株式会社 代表取締役社長 将積 保博さん初めて創業した会社の事業は軌道に乗り、私は第一線を退いた後(現在は第三者が経営を続けています)、日本で初めて誕生したヘッジファンドのアドバイザーをしばらく務めていました。2007年、テックマーク・サービセズ・リミテッドの日本支店からオファーを受け、日本法人(テックマーク・ジャパン)の立ち上げに際して代表に就任しました。

私には、「延長保証」に関する消費者としての原体験がありました。アメリカでの生活が始まり、現地で家電を揃えようとしたとき、買い物をするたびに「延長保証」をすすめられたのです。これは、当時の日本ではなかった経験でした。1930年前後にアメリカで生まれた延長保証は、私が渡米した頃には既に「当たり前」のものとして、人々の暮らしに浸透していたのです。私が代表に就任した当時も、アメリカにおける延長保証のマーケットは着々と成長していました。日本の延長保証のマーケットには勝算がある。そう確信していたのです。

しかし、実際にサービスの展開を始めた当初は、思うようにスケールせず、数々の苦労を経験しました。日本では前例のないビジネスだったため、ロールモデルとなる企業は存在しません。保証プログラムの構築や、付帯率を上げるための糸口を、ひたすら模索していました。ちょうどリーマンショックの時期だったことも大きく影響していたと思います。最初に導入が進んでいた自動車ディーラー業界でさえ、当初の延長保証の付帯率は、たったの5%。これではデータが少なすぎて、効果も測定できません(現在は付帯率50%)。クライアントの声に耳を傾け、試行錯誤を重ねた末に見つけた突破口は、延長保証を単なる「保証」としてではなく、「マーケティングのひとつの方法」として位置づけること。日本のような人口減少国においては、あらゆるマーケットが将来的に縮小傾向にあります。そうなると、新規顧客の獲得は、ますます難しくなるはずです。そこで大切なのは、既存顧客とのコミュニケーションを密にし、満足度を高めることで、強固な信頼を獲得することです。延長保証は、製品の購入時だけでなく、企業と顧客の継続的な関係性を結ぶことを可能にするツールになります。製品が故障した際に、スピーディーかつハイクオリティな修理サービスを提供することで、顧客からの信頼獲得に貢献できるのです。このような価値に気づいた企業が続々と、延長保証を「ロイヤルカスタマー・マーケティング」の一環と位置づけ、積極的に導入を行うようになっていったのです。

培ってきた実績を活かし、新たなビジネス展開へ。

現在、日本における延長保証のマーケットは10%超の伸び率を維持しているとも言われており、当社もそれ以上の伸び率で増収増益を続けてきました。今後は蓄積してきたデータをベースに、新たなビジネス展開も考えています。故障率の原因調査を通じて、たとえば特定の製品の「素材が弱い」「設計が複雑すぎる」など、さまざまな改善点や情報が明らかになってきたのです。このようなデータをクライアントにフィードバックすることで、さらなる社会貢献が期待できます。「予防修理」の仕組みやデータ分析に基づく品質改善提案などの取り組みを通じて製品の故障率が下がれば、メーカーが抱える修理部品の在庫コストを削減することも可能です。それは結果的に、延長保証料を下げることにも繋がるのです。クライアント企業が延長保証の仕組みを味方につけ、顧客との強固な信頼関係を築けるよう、今後も唯一無二のコンサルティングサービスを提供していきたいと考えています。

 

◆ 編集後記 ◆

テックマークジャパン株式会社の代表取締役社長・将積氏は、同社が創業25周年を迎えた2019年に、延長保証に関する解説と、そのマーケティングとしての活用法をまとめた、日本初の延長保証に関する書籍『「延長保証」~ 顧客を育てる新しいマーケティング手法』(ダイヤモンド社)を出版されている。書籍を出版した理由は、多くのクライアントからの声にあったという。日本にはこれまで、延長保証について知りたくても、わかりやすい入門書が存在しなかった。実際に、ご自身が日本において延長保証ビジネスを立ち上げる際にも、わざわざ海外から書籍を取り寄せるなど、情報収集には苦労したそうだ。今回、私も著書を拝読したが、自社のノウハウが惜しみなく盛り込まれており、将積氏の業界へ貢献したいという情熱が感じられた。延長保証サービスの普及は、最終的にはエンドユーザー(消費者)の利益に繋がるものであり、書籍を通して企業にその価値が正しく伝わることは、マーケットの拡大にも貢献するだろう。延長保証のメリットの享受者として、最もイメージしやすいのは「消費者」の立場であるが、今回の取材を通して、「メーカー(製造者)」、または「販売店(販売者)」、そして延長保証の提供者を加えた、「三方良し」の関係を確立できるというビジネスモデルであることを知り、事業の社会貢献度の高さを感じることとなった。

また、個人的に興味深く感じられたのは、大手生命保険会社に就職された将積氏が、国際投資部や海外支店など、社内の数少ないポストに抜擢され、資産運用畑のキャリアを歩まれた点である。国際投資部にいた当時の将積氏のミッションは、世界中の成長株を探し当て、投資を行うこと。資産を増やすには、グローバルな視点で情報を集め、将来予測に基づいた投資判断が求められる。たとえば、タイに新興工業団地ができ、融資先の日本企業が進出すると決まったとき。将積氏は、「将来的にセメントが売れる」と予測を立てた。そこで、タイの国有企業のセメントメーカーに投資を行い、大きな成果を上げたそうだ。また、ベルリンの壁が崩壊したと聞けば、ヨーロッパの動向を確かめにドイツへ渡り、ブラジル経済が活況だと聞けば、その要因を知るために現地へ飛ぶなど、ご自身の目で真実を確かめることを大切にされてきた。余談だが、カナダとブラジルでは、同種の樹木が生息しているという。面白いのは、カナダでは生育に12年を要する樹木が、ブラジルでは4年で成木になるそうだ(代わりに強度は劣る)。インフラ投資の活況を前に、どちらの国の木材企業に投資をすべきか…? このようなアプローチは、グローバル経済を意識しなければ見えてこない視点である。資産運用に携わっていたキャリアが、現在の将積氏の独自の考え方を形成している。既存の延長保証サービスの先に、彼がどのような世界を見ているのか。今後の展開が非常に楽しみである。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2020年9月28日