わずか40年ほどで、人口3万人から1400万人へ!人類史上、比類ない勢いで発展を遂げてきた爆速都市・深セン。今や世界の注目を集める一大都市となった深センだが、遡ること2006年、この地の可能性にいち早く気づき、身ひとつで飛び込んだ25歳の若者がいた。彼の名は、白井良。日本と世界を繋ぐ架け橋を築いた彼だが、過去には想像を絶するほどの苦難があった。波乱を乗り越え、夢を手にした彼の軌跡は、読者にとって大きな希望となるだろう。

世界を舞台にしたオープンイノベーションの実現を目指して。

弊社の事業は、〝グローバル〟のオープンイノベーションをコンセプトとしています。これからのビジネスは、「競争」ではなく「共創」の時代。企業が自前主義を捨て、他社や大学、地方自治体など、異業種・異分野の持つ技術やアイデアを組み合わせ、革新的なビジネスモデル、製品・サービス開発などを目指すオープンイノベーションの動きは、国内でも増えてきました。弊社の場合、〝国境を越えて〟それらを実現していくことを大前提としています。イノベーションには、「技術」「人材」「資本」が不可欠。我々は、それらに加えて「情熱」のような目に見えないものさえ地球規模で最適化し、新たな価値を創出したいと考えているのです。

そのために今、海外にチャンスを求める日本企業に対して、ビジネスコンサルティングや現地視察ツアー、Webメディアによる情報配信サービスを提供しています。我々の強みは、海外の文化やビジネスに精通したスペシャリストを現地に抱えていること。彼らは今日も、深セン(中国)、バンガロール(インド)、ダナン(ベトナム)、台湾、香港の各拠点で、日々刻々と変化する現地の経済やビジネスに触れ、顧客にとって真に価値ある情報の配信を続けています。現状の主力サービスは、この強みをフルに活かした現地の視察ツアーです。なかでも深センのツアー参加者は、年間1,000人。現地のスペシャリストが、深センの最先端技術を導入した施設のご案内や、起業家とのマッチングの機会などを、上場企業を含む日本の大手を中心に、年間600社に提供しています。日本のTV取材が入ったことも反響に繋がりましたが、コツコツ継続してきた自社の情報配信メディアからの参加申込みも着実に増えています。

この状況から実感するのは、人口減少や少子高齢化などの社会的課題を背景に、多くの日本企業が今、危機感を募らせていること。そして、未来に向けた変化の必要性を自覚しながら変わることができない体質を危惧して、海外に活路を見出す企業が増えていること。これは、非常に明るい兆しです。では、我々に何ができるのか。もちろん、急速に発展する都市の空気に触れるだけでも意義はあるでしょう。しかし、弊社はさらに、〝越境アクセラレータープログラム〟という、次なるアクションプランを備えているのです。具体的には、日本企業と現地企業の提携・出資・M&Aなど、国境を越えた価値創出を支援するサービス。コンサルティングとアクセラレーションを融合した、弊社独自のプログラムです。 我々は、現地のコンシェルジュのような役割を担い、顧客企業のKPI設定から計画立案、資料作成、現地での活動、レポーティングなどを支援しています。また、メディア運営で培ったベンチャー企業のネットワークを活かし、国や業種の壁を越えた最適なマッチングの機会を提供し、徐々に成功事例が出てきたところです。

ちなみに弊社は海外市場のなかでも、深セン、バンガロール、ダナンなど、いわゆる〝第3都市〟をビジネス拠点としています。未来に〝化ける〟可能性を秘めた地域に早くからベットし、現地に深く根を張ることで、来たる勃興のときに大きな果実が得られると考えるからです。そこには実際、多くのチャンスが転がっています。日本の大企業の新規事業部や経営企画部、経営層の方々を中心に、ぜひこの可能性に飛び込んでいただきたい。そのチャレンジこそが、日本の未来を切り拓く、確かな光になると思うのです。そもそもビジネスの価値創出に、国境など関係ないはずです。イノベーターや資本家は、世界のどこに居たって構わない。そこに然るべきマッチングを実現させ、自国では成し得なかった価値を生み出せるのであれば、もはや国境さえも消していけるのではないでしょうか。テクノロジーや資本、人材、情熱を〝地球単位で〟掛け合わせていくことで、たとえば地球温暖化や難病、貧富の差を解決するイノベーションに繋がる…。そんな未来を描いて、挑戦を続けているところです。

集団行動がイヤ!人と同じなんて無理!自他ともに大変だった少年時代。

株式会社ホワイトホール 代表取締役 白井 良さんいわゆる〝くそガキ〟でしたね(笑)。自分みたいな子どもは、絶対に育てたくないですから。幼稚園を脱走して、行方不明になるなんて日常茶飯事。最初は親も心配したようですが、毎度のことなので放置されていました(笑)。とにかく集団行動が苦手で…。やりたくないことを強制されるのが、窮屈で仕方なかったんです。だから幼稚園から大学まで、基本的に苦痛な日々でした。そんな中でも、当時いちばん好きだった科目は図画工作。なぜなら、正解のない科目だからです。あるとき粘土工作の時間があって、皆が動物や乗り物を作っているときに、私ひとりだけ〝重量挙げ〟とか〝おかもち〟とか、超マニアックな代物を作ったんです(笑)。今思うに、人と同じがイヤだったんでしょうね。常にそんな調子でしたから、画一化が求められたあの時代、かなり浮いた存在だったと思います。

祖父母と過ごす時間が長かったので、甘やかされて育ったのかもしれません。とにかく自分の興味を惹かれることしかやらない子どもでした。その代わり、好きなことへのコミット度合は人一倍!小学校低学年では野球に夢中になり、好きな選手のフォームを研究して絵に描いたり、バットの振り方を記した自分専用のマニュアルを作ったり。将来は野球選手になりたくて、4年生から野球部に入りました。しかし、顧問の先生が嫌いで…(笑)。「ゴリ」ってあだ名の先生でしたが、どうにもダメで、あえなく退部。5年生からサッカー部に移りました。ところが…。なんと今度はゴリがサッカー部に移ってきたんですよ(笑)。それを機に、スポーツはパタっと辞めてしまいました。

音楽に目覚めた中学時代。バンド活動に明け暮れ、成績は急降下!

中学時代は音楽に没頭します。『バンドやろうぜ』という雑誌に出逢い、そのまま「バンドやろうぜ!」ってノリで、仲間と始めたのがキッカケでした。当時は『LUNA SEA』『X-JAPAN』に夢中になり、バンド三昧の生活へ。朝から晩までギターを弾いていましたね。あるとき音楽の先生に直談判して、昼休みの音楽室開放を実現。仲間とドラムまで持ち込んで、嬉々として練習を始めたのです。ところが、すぐに苦情が殺到して、音楽室の使用許可は取り消し!当時から提案と交渉で、自分のやりたいことを実現してきたタイプでした。

勉強そっちのけで音楽をやっていたので、成績は見る見るうちに急降下(笑)。見かねた親から、期末テストで400点以上を取ったらギターを買ってもらう約束を取り付け、熱心に勉強した時期がありました。結果はなんと、399点!(笑)。数学の方程式の問題に、惜しい減点があったのです。すかさず先生に交渉し、見事400点への加点が成立!無事にギターを買ってもらいました。しかし、ひとつの目標を達成した途端、成績は下り坂の一途へ…。今になって、「KPI設定」って大事だなぁと実感します(笑)。ギターと同様、ビジネスの売上など、目先のニンジンだけでは人は続かないものです。長期的なビジョンを描くこと、それに対する内発的な動機づけが大切ですね。

高校受験は、最後の猛烈な追い上げで志望校に合格。人生で最も努力した時期だったと思います。なぜそこまで頑張れたのかというと、志望校を宣言したときに、先生から「無理だ」と云われたから。悔しさで、一気に火が付きました。しかし、ひとたび入学が確定すると、再び勉強を投げ出して音楽三昧の生活に。運動会はもちろん、修学旅行にも参加せず、返金されたお金でギターを買うような奴でした(笑)。トップ4位の成績で入学したはずが、気づけばビリから2位まで落ちて、我ながら極端な人間だったと思います。

高校時代、独学のWebサイト制作が収入に!起業しながら北京の大学へ。

実は高校3年生の頃から、わりと稼いでいたんですよ。独学で制作したバンドのWebサイトが評判になり、それが仕事になったのです。そこから5年間ほど、音楽関係の出版社やアーティストからの依頼を受け、サイト制作を担っていました。ちょうどホリエモンが、オン・ザ・エッヂで同じことをしていた時代です。その仕事と並行して、2年間ほど北京の大学に留学。当時、中国がアメリカを超えるというアナリスト予想を、直感的に信じていたんです。まだアメリカこそ超えていませんが、実際に日本のGDPを抜き去って、2~3倍に成長しましたね。私が留学した当時、中国のGDPはまだ日本の10分の1くらい。日本を抜くなんて、誰も信じていませんでした。日本人の留学といえば当時、アメリカやイギリスが主流。そんななか、わざわざ中国へ来る留学生は、いわゆる〝はみ出し者〟でした。私には、将来的に中国でビジネスをするという目的があったので、語学習得や人脈づくりに余念がありませんでした。

大手証券会社に就職。日本特有の企業文化が大きなストレスに…。

帰国後に、日本の証券会社に就職しています。制作会社が軌道に乗っていたこともあり、新卒で就職する気はなかったのですが、サイト制作にも新たな技術が次々に必要になってきたタイミングで、一度就職することにしたのです。証券会社の仕事は、株や投資信託の飛び込み営業をはじめ、なかなかハードな業務です。しかし、やり甲斐も感じていました。一方で、日本特有の上下関係、社内に漂う閉塞感は、私にとって明らかなストレスでした。違和感に耐えつつ仕事を続けるうちに、なんだか体調が悪くなってきたのです。

そこに追い打ちをかけたのが、ライブドアショックでした。当時の私のお客様は、信用取引で大量のライブドア株を保有していました。上場廃止が目前に迫り、株価のストップ安が毎日続く事態に…。「本日中に3,000万円の追証(追加資金)を入れなければ、お客様は破産ですよ!」若造の私を可愛がってくれた方々に、このような電話を架け続ける辛い日々。全身の蕁麻疹、髪まで縮れるほどのストレスで、もはや身体が持たない状態でした。

2005年、人生に転機をもたらした「深セン」のカオス。

証券会社を辞める転機となったのが、2005年の深セン訪問です。初めて現地入りしたのは、深夜22時ごろ。街に出た途端、数人の物乞いが私を取り囲みました。ボロボロの中華服に、頭蓋骨が陥没した老人。もとの色が分からないほど、真っ黒に汚れた衣服の女性。必死で足にしがみつく、バラ売りの子どもたち。手足がなく、転がりながら近寄ってくる少年…。当時の深センには、度肝を抜かれるほどの殺伐とした光景が、当たり前のように存在していたのです。繁華街裏の小路に入ると、若い女性がサトウキビをかじりながら、片方の鼻の穴を塞ぎ、ゴミ箱に向かって鼻水を飛ばしていました。交差点の街路樹のもと、子どもに大便をさせる母親。街頭のゴミ箱を物色する、赤ちゃんを抱いた女性。その横を、高級車が爆音を立て走り去って行きます。生ゴミが腐ったような悪臭のなか、25歳の私は衝撃と興奮に震えていました。会社で強いられてきた「常識」など、一瞬にして覆されたのです。この街は、まぎれもなく山積みの問題を抱えている。同時に、これから激変を遂げていくエネルギーが漲っていました。深センの〝カオス〟に魅了された私に、もはや迷いはありませんでした。眠っていた何かが呼び覚まされたかのように、この街での新たなチャレンジに胸を躍らせていたのです。

証券会社を退職して起業。事業もないまま、独りで深センの地へ。

株式会社ホワイトホール 代表取締役 白井 良さんライブドアショック以前の日本の株式市場は、ベンチャー企業のIPOが活況で、証券会社時代は新規公開株をお得意様に配り歩いていました。カカクコムやオールアバウトなど、WEBサービスの会社が続々と上場。公開価格の数倍になるのが当たり前の相場でした。私が起業したのは、インターネット関連の会社が上場し始めた頃。若かった私は、ホームページでサービスを作れば上場できると見込んでいたのです。新規公開株で利益を得た顧客が大喜びする姿を見ていたこともあり、自分も起業してIPOを目指したいという野心がありました。

起業してすぐ、深センに移住。まずは手探りで現地のビジネスパートナーを見つけ、中国茶の貿易をスタートしました。なぜ〝中国茶〟だったのか、特に理由はありません。ビジネスの知識も経験もなかった私は、収益の種を見つけるのに精一杯。何かの流れで、そこに行き着いたのでしょう。開発地区にある中国茶専門マーケットで出逢った老婆と仲良くなり、仕入れ先の開拓に成功。『美遊茶(ビュウティー)』というオリジナルブランドを立ち上げ、デザインから袋詰め、ロゴの商標登録まで、すべて自分で行いました。商品は日本に輸送し、流行り始めたネット通販で勝負すべく、自ら販売サイトを構築。さらに、地方ラジオの番組枠まで買い取りました。『レディオビュウティー』という番組名で、健康に関する話題から、リスナーをサイトに誘導する計画を実施。コンテンツから収録、挿入歌まで、すべて自作しました。当時は寝る間も惜しんで作業に追われ、起業の過酷さが身に沁みましたね。

証券会社時代にお世話になったお客様にも、勇んでアポを取りました。出資やラジオ番組のスポンサーの依頼をするためです。ところが、今までチヤホヤしてくれていた経営者の方々が、まったく興味を持ってくれないのです。むしろ、明らかに迷惑な様子。そのとき初めて気づきました。彼らは新規公開株の案件を持ってくる、大手証券会社に勤める私だから歓迎してくれていたのだと…。

苦労して作った商品をネットにアップし、1日がかりで制作したラジオの台本をオンエア。しかし、待てど暮らせど注文はありません。そこに追い打ちをかけるかのように、農薬規制が始まったのです。中国産の農作物は、多くが日本で規制対象の農薬を使っていました。その結果、私が扱う中国茶も輸入禁止になったのです。商品は一つも売れない。仕入れさえできない。一瞬で目の前が真っ暗になりました。あれだけ起業に反対していた母親が、日本で作業を手伝ってくれている…。申し訳なさでいっぱいでした。頼みの300万円の資本金も、もはや底を尽きる一歩手前。当時はもう、床に就けば資金がショートする恐怖で寝付けず、朝は破産した夢で目が覚める。ほとんどノイローゼのような過酷な日々が、3か月間も続きました。

伝説その1:背水の陣で、奇跡の復活を遂げる。

深センで始めた中国茶ビジネスは、私を嘲笑うかのように崩れ去り、材料費や製作費、プロモーション費用など、すべてが水の泡になりました。

そんなある日、私は中国の湖南省を訪れました。深センを離れて田舎に籠り、中国ビジネスについて考え直そうと思ったのです。季節は極寒の冬。一泊1,000円ほどの安宿に着き、シャワーで温まろうにも冷水しか出てきません。部屋には暖房もないので、暖を取ろうと夕飯を食べに出かけました。ところが、湖南料理は想像を絶する辛さ!満足に食事をすることさえできませんでした。さらに今度は、猛烈な腹痛に襲われたのです。薬もないので、宿に戻って布団をかぶり、寒さと激痛に耐えるしかありません。あまりの悲惨さに、思わず涙が溢れました。証券会社を辞め、上場を夢見て起業したものの、瞬く間に失敗。そしてこんな惨めなありさま!もうダメだ。日本に帰って就職しよう…。そう思った瞬間に、スーッと痛みが和らいでいきました。無意識のうちに、過剰なストレスがかかっていたのでしょう。身体がラクになるのと同時に、再び悔しさが込み上げてきました。このまま終わってたまるか…!奮い立ってPCを立ち上げ、まるで何かに取り憑かれたかのようにサイト制作を始めたのです。このとき一晩で作ったのが、『EZ-China(イージーチャイナ)』というサイト。もう、何でもする覚悟でした。中国進出を目指す日本人に向けた、現地での会社設立、商標の取得、銀行口座開設代行、貿易のサポート。当時は中国でもECが流行り始めていたので、タオバオでの出品代行や仕入代行もメニューに追加。サイトが完成した翌朝には、私の身体もPCも、凍りついたように冷え切っていました。

深センに戻ってすぐ、めったに鳴らない中国携帯に着信が!しかも、日本の電話番号です。これってもしかして、初注文!?電話に出ると、やはり『EZ-China』を見た日本人からの問合わせでした。内容は、タオバオで仕入れをしたいという要望。もう、舞い上がるような気持ちでした。ユーザー獲得が見込めるとわかったので、急いでサービスの価格や詳細を詰めました。個人貿易代行業には当時、まだベンチマークする競合がなく、手探りで値段やルールを決めていたのです。結果、このビジネスはスケールしました。中国人スタッフが毎日フル稼働で、大量の貨物を中国から日本に送る日々が始まったのです。

個人輸入代行業に特化したサイト『タオバオ代行王』を改めて立ち上げると、年間3,000件ほど受注するビジネスへと飛躍的に成長しました。ネット上でのクチコミやメディアの紹介もあり、利用者が自然に増えていったのです。中国へ乗り出して苦労の連続の末、悲願の成功を手にしました。しかし、そこで慢心したのです。当時の私は、ビジネスは楽勝だと思っていました。仕事といえば、iPhoneで入金チェックをするだけ。そのうち銀行から目いっぱいの融資を受け、未経験ゾーンに投資をしていくようになります。29歳のときでした。

再び襲いかかった、忘れられない悪夢の日々…。

調子に乗って気が大きくなっていた私は、新たに飲食業に乗り出すことになります。スイーツブランドを立ち上げ、中国でヒットさせたいと考えたのです。スイーツを選んだ理由は、証券会社時代の尊敬する上司の助言を鵜呑みにしたから。「ストレス社会が加速するので、働く人々に癒しを与えるスイーツ店がヒットする」「東京だったら池袋あたりが狙い目」…。社会人になりたてだった私の認識のなかで、驚くほど頭が良かったその上司を、いつしか神格化していたのです。すぐさま東京に出店してノウハウを得るべく、FC加盟金の安いジェラートブランドに加盟。本社と交渉し、池袋駅の物件を押さえました。店長を任せる友人の説得、アルバイトの募集、店舗の内装・設備など、すべてを猛スピードで整備。満を持して、店は無事にオープンしました。開店と同時にお客様が入ってくる喜びを味わい、満足した私は中国に戻りました。

2010年の後半。忘れもしない、悪夢の始まりです。軌道に乗っていた個人輸入代行サービスに、陰りが見えてきました。日本の〝転売ヤー〟と呼ばれる人たちに支えられてきた弊社の独占市場に、同業他社が一気に乗り込んできたのです。ビジネスモデルが模倣され、手数料の安い業者が増えたことで、顧客が続々と奪われていく現象を目の当たりにしました。日本で飲食ビジネスに手を取られていた私も、中国で作業に追われていたスタッフも、対策を打つのが遅過ぎました。ビジネスの世界は残酷なものです。他社にシェアを奪われたうえに円安まで進み、業界自体が不利な状況に。そこに追い打ちをかけるように、尖閣諸島の問題が勃発します。顧客の貨物が通関で没収される事件が発生し、多額の損害賠償を背負うことになったのです。これは、致命的な打撃でした。さらに、中国ビジネスに対するバッシングが激化。日本企業が軒並み撤退したことで、中国進出のコンサルティングサービスまで、顧客ゼロの状態になりました。好調だったときとは一変。周囲から「怪しいコンサルティング会社」と嘲笑されるようになりました。

さらに、出店直後のジェラートカフェでも問題が起きていました。店長とアルバイトの関係がうまくいかず、スタッフが激減。疲れ果てた店長が運営するショップには、客足が遠のいていました。とうとう一度も黒字化することはなく、営業すればするほど赤字になっていく地獄のスパイラルに陥ったのです。

私は経験に学ぶ愚者でした。他人の言葉を鵜呑みにし、店舗を素人店長に任せきりにしたこと。順調なときに軽率に異業種に乗り出し、本業を疎かにしたこと。当時は自分の子どもが病気になったり離婚をしたり、株式投資をしていた会社が倒産したり、信じられないほどの不幸が相次ぎました。ストレスで逆流性食道炎まで発症。絶望のなか雑踏の街を歩くと、景色がスローモーションになり、音も聞こえなくなったことを覚えています。いったい何のために頑張ってきたのだろう…。私の心は、音を立てて折れていきました。そう、すべては私のエゴが生んだ結果だったのです。

伝説その2:起死回生!不死鳥のごとく蘇る。

株式会社ホワイトホール 代表取締役 白井 良さん一瞬にして膨れ上がった借金に加え、仕事さえない。会社を倒産させて自己破産するしか選択肢はありませんでした。当時はワラにもすがる思いで禅寺に駆け込み、毎日座禅を組んだものです。周囲への感謝の気持ちを思い出し、利己的な考えを改める機会となりました。

既存ビジネスも売却し、何もすることがなくなった私は、何やら吹っ切れた感がありました。どうせ残り1~2ヵ月で破産するなら、その前にパァ~っとやろうと決めたんです。なんと、与信の限界まですべて使って、恵比寿の高級マンションを借り、輸入車も購入(笑)。予定が何もないので、早朝からピカピカのクルマで恵比寿の街を走ると、通勤途中の人々の視線を一身に浴びました。彼らからは、さぞリッチで優雅な若造に見えたことでしょう。でも実際には、誰よりも貧乏なのです(笑)。ところが、表面的ステータスを一新したことでエネルギーが変わったのか、急激に仕事が舞い込んでくるようになりました。そして2015年、ついに本格的な追い風が吹き始めます。ITや製造業の先端都市として、深センが注目されるようになったのです!すかさず『深セン経済情報』というメディアを立ち上げ、現地の経済発展や最新テクノロジーに関する情報をコツコツと発信。深センのベンチャー企業を取材して、独自のコミュニティづくりに成功しました。ものづくりコンサルティングやビジネスマッチングなどが好評となり、業績もV字回復していきました。人生とは不思議なものですね。何があっても腐らず、歌舞いていることは大事なのだと実感しました(笑)。

2017年には、初の深センビジネス視察ツアーを企画。弊社メディアを見た大手企業の技術者の方が1名、自費で参加してくれました。私を含む4人のスタッフは、現地企業を何社もご案内し、熱意を込めて、ありったけの情報を提供しました。「努力を重ねて積み上げた知識を、惜しげもなく提供してくれてありがとう」…そう深く感謝されたことが実にうれしく、このサービスには価値があると確信した瞬間でした。これを機に、現地視察ツアーを本格的に事業化。現在では年間100回に上る視察・研修ツアーを開催し、約600社の企業様にご参加いただいています。かつて「怪しいコンサルティング会社」と嘲笑された我々は、「今をときめくトレンディな会社」へと、ついに返り咲いたのです。

白井社長が描く、ホワイトホールの未来。

社名の「ホワイトホール」は、宇宙に存在するといわれる天体名に由来しています。ブラックホールがすべてを〝呑み込む〟性質である一方、ホワイトホールは〝放出〟とか〝生み出す〟性質を持つそうです。まさに我々は国境を越え、あらゆる価値を地球規模で創出していきたい。人類や地球の未来ために、1ミリでも貢献したいと考えています。ヘルステック、バイオテック、AI、ロボティクス、ブレインテック、アグリテック、培養肉…。未来に起こり得る危機に対して、いったい何が救世主になるのか、現時点で断言することは不可能です。だからこそ今、我々は深センをはじめとしたアジア各国で、スタートアップから大企業まで、イノベーティブな企業の情報をデータベース化し、あらゆる業界のビジネスモデルやユースケースを集めているのです。世界で同時多発的に生まれる価値の原石をいち早く発見し、どのような〝掛け算〟が未来を変えてゆくのか…。実にエキサイティングなビジネスです。日本企業ならではの強みを活かしたイノベーションが続々と起こる地球の未来を、ぜひ我々の手で創造していきたいと思います。今年3月、ベクトルから出資を受けたことで、アジア全域へと本格進出できる体制が整いました。訴求力を強みとするベクトルとの間で、新たなシナジー効果が望めるでしょう。弊社ならではのサービスに磨きをかけ、2023年の株式上場を目指してまいります。


◆ 編集後記 ◆

まるで少年のようなひと。これが、白井社長に対する強い印象だった。実年齢よりもだいぶ若く見えるうえに、2人のお子さんのパパだというが、なかなか想像がつかないのだ。過去にそこまで壮絶な経験をしたなど信じられないほど、無邪気さと爽やかさを見事に残したまま、歳を重ねて来られたようだ。起業家っていいなぁ…。白井社長が今後の構想を話すたびにワクワクが伝染し、来たときよりもエネルギーに満ちて、取材時間を終えたのだった。

そんな白井社長は、ミュージシャンとしての顔も持つ多彩なひとでもある。過去にはメジャーデビューもしており、昨年はCDもリリースした。彼が音楽を愛する理由は、少年時代の図工が好きだった理由と同様、正解がないから。作詞・作曲・歌まですべて、自由に表現できる。そんな白井社長にとって、きっとビジネスを愛する理由も同じなのだろう。

ホワイトホールが運営するメディア『深セン経済情報』にアクセスすると、現地のスタートアップの企業レポートやトレンドなど、リアルな情報を知ることができる。それはまるで、証券会社のアナリストレポートを想起させるもので、プロに向けた内容勝負の発信であることがよくわかる。海外ビジネスは夢がある一方、為替や政治の動向をダイレクトに受けるなどリスクも大きい。だからこそ、創業時から現地に根差し、酸いも甘いも経験してきた同社にしか提供できない価値がある。少子高齢化に伴う労働人口の激減をはじめ、日本経済の将来については明るいニュースが少ない。しかし、白井社長は悲観すべきことではないという。海外に出れば、もちろん日本のダメな部分も見えてくる一方、日本企業ならではの強みや魅力も確かにあるそうだ。「競争」の時代が終わりを迎え、これからは「共創」の時代。同社の想いがカタチになり、日本企業の国境を越えたチャレンジが花開く未来を思うと、今から非常に楽しみだ。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2019年11月11日