株式会社サイバーセキュリティクラウドは、2010年設立のサイバーセキュリティ市場に特化した、国内独立系ベンチャーである。企業や官公庁をはじめとしたWebサイトをサイバー攻撃から守るクラウド型WAF(Web Application Firewall)『攻撃遮断くん』を提供している。2013年12月のサービス開始から約3年半で、この分野の国内累計導入サイト数・累計導入社数ともにNo.1※を獲得。2018年5月時点の累計導入実績は、5000サイトを超え、一般財団法人日本ファッション協会「日本クリエイション大賞2018大賞」も受賞。同年、米国に現地法人を設立し、海外展開に向けた一歩を踏み出した。今回は、異彩を放つ若き経営者の密着取材をお届けする。
※ESP総研調べ「クラウド型WAFサービス」に関する市場調査(2017年8月調査)

国内実績1位!クラウド型WAF『攻撃遮断くん』

弊社が提供している『攻撃遮断くん』は、外部からのサイバー攻撃を遮断し、個人情報漏洩、改ざん、サービス停止などから、企業様や官公庁のWEBサイトを守るクラウド型セキュリティサービスです。 開発から運用、サポートまでを自社で一貫して行い、サービス開始から約3年半で累計導入社数・累計導入サイト数ともに国内第1位を獲得しました。防御パターンを自動アップデートできる高セキュリティを特徴とし、新たな脅威にも、担当者不要で対応が可能です。また、導入効果は月次でお客様にレポートしており、サービスの継続率は98.9%と、高い満足度を獲得しています。2018年10月より、タレントの坂上忍氏を起用したPR活動を開始し、一般的な認知度も高まってきました。とはいえ、日本におけるセキュリティ対策への意識は、まだ浸透しているとは言えません。対策の遅れが、企業にとって致命的な脅威となり得ることを啓蒙し、事前対応へと導いていくことが、弊社の重要な役割だと感じています。

株式会社サイバーセキュリティクラウド 代表取締役 大野 暉さん虚弱だった少年が、極真全日本チャンピオンに?!

生まれも育ちも横浜です。住んでいたのは、現在の〝港北ニュータウン〟と呼ばれる地域。今でこそ、知名度を上げたエリアですが、当時は5km先まで見渡せるような何もない土地でした。ちなみに「暉(ひかる)」という名は、ちょうど生まれた1990年に、文部省が人名の使用に初めて認めた漢字だそうです。母がミーハーだったせいで、人に逢うたび説明を要する、珍しい名前になりました(笑)

5歳のときに空手を始めています。幼い頃は体が小さかったこともあり、なにかと追っかけ回されたりバカにされたり、ハードな子ども社会を生きていました。おまけに体も弱かったので、すぐ熱を出す、風邪をひく、インフルエンザには即感染!そんな状況を見かねた両親から、無理やり地元の空手道場に突っ込まれたのが始まりでした。流派は極真を代表とするフルコンタクト空手です。設立まもない道場で、僕が5番目に入ったジュニアでした。あとで判ったことですが、直前に入った兄弟子が、なんと学校で僕を追っかけ回していた奴で…(笑)「なんでまた、外でもイジメられなきゃいけないんだ!」って、あまりの理不尽さに運命を呪いましたね。案の定、毎日ボッコボコにやられました(笑)ところが、来る日も来る日も泣きながら稽古を続けた結果、いつの間にか強くなっていたのです。小学2、3年には全日本クラスになり、全国優勝も果たしました。道場では決して強いほうではなかった僕が、大会に出るとほぼ無敵状態…。つまり、身内の仲間が極端に強過ぎたのです。僕が通っていた道場は、代表の渡辺氏の経営センスと指導力で、設立ほどなくして全日本クラスの強者ぞろいになっていました。そんな環境のもと、日々の稽古で鍛えられていたんですね。僕が空手を続けたのは高校1年までですが、その道場は今、全国各地に支部を構え、フルコンタクト空手において協会トップの地位を誇る名門へと成長しています。

空手を通じて培ったのは、何より負けず嫌いの性格でしょう。全日本チャンピオンも経験し、いわゆる〝勝ち癖〟が身についた結果、勉強でも徒競走でも、もはや勝つのが当たり前。人に負ける自分を許せないという、なんとも大変な性分になってしまいました(笑)

新設校の学級委員長として掴んだ、空前絶後のチャンス!

中学3年生のとき、地域人口の爆発的な増加を機に分校となり、新設校の横浜市立東山田中学校へ通うことになりました。当時の新任校長が、楽天の元・副社長、本城慎之介さんでした。彼こそが、〝楽天市場〟をゼロから創り上げた人です。幸運なことに、僕は初代の学級委員長に就任することで、卒業までの1年間、彼と一緒に学校づくりを担うという絶好のチャンスを得ました。彼がなぜ、楽天の副社長のポジションを辞し、教育分野に挑戦しているのか。30代にして、なぜ多額の資産を持っているのか…。本城氏から聞けたのは、とにかく刺激的な話ばかり。そもそも僕のような中学生が、普通では逢えないはずの人です。本城さんはまた、企業に「就職」した経験のない大人でした。楽天時代にも、三木谷社長から一任された〝楽天市場〟を成功へと導き、そのまま副社長になった人なのです。そんな働き方が世の中に存在することを、本城さんに出逢って初めて知りました。本城さんと過ごした貴重な1年間は、その後の僕の人生に、多大な影響を与えてくださいました。

人生初の資金調達で、志望校への進学を実現!

高校受験のとき、両親から提示された進路の選択肢は2つでした。1つは、国立高校に進んで東大へ行くこと。または、県立高校に進んで東大へ行くこと。それがダメなら今すぐ消防士になって、実家にお金を入れなさい!…と(笑)あまりに極端な条件ですが、実際のところ経済的に余裕のある家庭ではなかったのです。ついには父から、「ここまで育てたのだから充分だろう。15歳といえば、昔なら元服の年齢だぞ!」と、言い放たれる始末…(笑)結果的に私立受験が終わった時点で僕が受験勉強に飽きてしまったんですね。国立高校に進んで、再び大学受験をするなんて御免だ…。そこで両親に、高校は早稲田に進みたいと申し出たところ、あえなく一蹴!交渉の余地さえありません。しかし、ダメだと云われると、むしろ燃えてくるのが僕の性分です(笑)最終的には親戚・知人を頼って自力でお金を調達し、若過ぎる借金生活の幕開けと同時に、志望校への進学が実現しました。

学費を稼ぐために発掘された、意外な才能!?

株式会社サイバーセキュリティクラウド 代表取締役 大野 暉さん念願叶って、早稲田大学高等学院へ進学。超優秀な同世代が見事に揃った環境に、入学早々から驚かされた記憶があります。一方で、僕自身は勉強への明確な目的が見出せず、高校生活をどう過ごすべきか思案していました。大学受験の予定もなければ、自分がアカデミアの世界に進む未来も、まったくイメージできないのです。早稲田の自由な校風も味方したのでしょう。結局は、遊びの方向へ振り切ってしまいました(笑)飲食店のバイト代で借金を細々と返しつつ、ひたすら遊び倒す日々。お金は当然、一向に貯まりません。このままでは学費が払えず進級できない…!ようやく焦り出したのは、高校1年生の秋でした。

とにかく稼がなくては…!そんな僕のもとへ舞い込んだのが、とある大手広告代理店のバイト情報でした。友達の話によれば、たった2時間のインタビューに答えるだけで、8千円も貰えるという激アツ案件!なんだか嘘みたいな話ですが、さすがに有名企業の募集なら心配ないだろうと、試してみることにしたのです。

バイト当日、広告代理店のオフィスに行くと、同じく集められた高校生が5名いました。そこで僕らに求められたのは、とある商品をテーマに、自由に意見を出し合うこと。「…え?!本当にそれだけ?!そんなことで、どうして僕らが8千円も貰えるんだ…?!」事実、現金8千円が手渡され、領収証に判を押して任務は終了。しかし、手にした報酬に対して、なんだか拍子抜けというか、あまりに手応えが無いのです。僕は思わず居残って、広告代理店の担当者を質問攻めにしました。なぜ自分が8千円を貰えるのか、理由を聞かなければ帰れないほど気になったのです。実は担当者側も、僕に興味を持ってくれていました。というのも、2時間のインタビューの間、ひたすら僕だけが喋り続けていたから。商品のダメ出しなど言いたい放題、他の5人が発言する隙もないほどの弾丸トークで…(笑)あまりに空気が読めない僕を、逆に面白がってくれたようでした。

話を聞いて解ったのは、クライアントが世界有数の消費財メーカーであり、製品の製造販売には潤沢な予算があること。彼らは新製品発売前の地道なマーケティング活動を通じて、ヒット商品へ導くための確証を、できる限り集める必要があること。そのためなら、高校生に4万8千円(8千円×6人)を払ったところで、痛くも痒くもないのです。なぜなら期待される売上は、数十億円に上るのだから!

これこそが社会だ…。ビジネスだ!!話を聞いて興奮した僕は、「今後の案件すべて、無償で僕にやらせてください!」と、即座に申し出ていました。「それじゃあ、次回インタビューの対象製品に関する意見を、ワード文書にまとめてきて。ちなみに他に30人、男の子を集められる?」…と、思わぬ展開に。「もちろんです!」と即答し、すぐに対応しました。彼らの期待に応えた結果、請け負う業務は急速に拡大。書いた企画書が高い評価をいただき、実際に企業から採用された際に、成果報酬を受け取るようになったのです。パワフルに企画を量産していたので、「活きのイイ高校生がいる!」と噂が広まり、気づけば売れっ子になっていたのです(笑)おかげさまで、高校1年の終わりには、晴れて借金も完済できました。

次なるステージを求め、18歳で会社設立。

株式会社サイバーセキュリティクラウド 代表取締役 大野 暉さんたった数か月の間に、僕は貧乏高校生から超・金持ち高校生へと変貌を遂げ、気づけば「お金」に対する認識が変わっていました。「稼ぐ」という行為は、もはや日常になっていたのです。

こんな成金高校生は他にいませんから、どこへ行っても仲間が集まってきました。自称〝友達2000人〟を豪語する、超生意気な若造だったと思います(笑)派手に遊んでは、ひたすら授業は寝て過ごす日々。好き放題に自由を謳歌した、刺激的な毎日でした。

しかし、高校2年の終わりには、感情に変化がありました。これまで通り出来ることを重ね、たった一人で稼ぐことが、なんだか退屈に思えてきたのです。自分が携わった商品が、狙い通りにヒットしたとき、喜びが得られるのは確かです。しかし、それ自体がそもそも、〝限りのある〟拡大に思えて、徐々に面白さに欠けてきたのです。どうせなら、もっと大きなことに挑んでみたい…。そんな想いが沸々と燻っていました。

2007年当時は、〝ゲーム業界〟のベンチャーが注目され始めた頃。しかし僕には、まったく魅力が感じられませんでした。どうせなら、もっと人の役に立つことがしたい…。とはいえ具体的なプランはなく、自問自答の日々が続きます。この国で、あらゆる人の役に立つ、誰もが当たり前に使うような何かを創りたい…。〝当たり前〟とは、電気・水道・ガスのように、誰もが〝意識せずとも〟使っているもの…。それを、どうやら〝インフラ〟と呼ぶらしい。では、自分もインフラが創りたい!僕のような若者が今から参入して、勝てるインフラって何だろう…?

結果的に辿り着いたのは、環境事業への参入でした。たとえばリサイクルは、間違いなく世の中に役立つ産業です。それでいて、特に目立った動きもなく、イノベーションの余地に溢れている。うまく切り込めれば、若者の僕でも勝てるのではと踏んだのです。

まずは現状の課題を明確にすべく、リサーチを開始。すぐにビジネスチャンスは見つかりました。それは、企業がゴミを捨てるシーン。従来からゴミの廃棄時には業者の言い値に従うのが通例で、そこには一切、競争原理がなかったのです。結果、収集業者がゴミをどう処理しようが、企業は知る由もありません。しかし、捨て方を少し工夫すれば、コストカットの可能性が大いに潜んでいました。この業界の不透明さを是正すれば、企業のコスト削減と同時に、社会にあるべきリサイクルを実現できると確信しました。

そこでまずは、法人向けにゴミ収集のコンサルティングサービスを開始。企業のコスト削減に直結する提案のため、すぐに事業は軌道に乗りました。2009年には、成果報酬型の月額サービスへと移行するため、ゴミの管理システム『E-con』をリリース。このとき設立した法人が、株式会社ユニフェクトです。社名の由来は、「ユニオン」と「インフェクト」を掛け合わせた造語。ユニオンには「共同体」、インフェクトには「波及する」という意味があります。世の中に価値を波及していく共同体を創りたい。そんな想いで設立した会社です。当時の僕は18歳。年齢を云えば、皆さん面白がって逢ってくれました。アポさえ取れればサービスには自信があったので、ほぼ100%成約に繋がっていましたね。

「最年少上場も夢じゃないですね!」利益は順調に伸びていたので、上場に向けた証券会社からの営業の話も来ていました。しかし、「上場」が何たるかを知らなかった僕が、いざその気になってみた途端、思わぬ回答が返ってきました。調査の結果、そもそも事業内容的に上場は「難しい」と…。さんざん持ち上げられた挙句、なんだか肩透かしに遭ったような気分です。僕は今後、どうしたらいいのだ…?世の中に役立つ価値あるサービスだと信じて拡大してきたのに。僕らの事業モデルは、価値を認めてくださるエンドユーザーがいる一方で、それを喜ばない人々も確実に生んでいた…。全員をハッピーにできなかった事実に直面し、やるせない気持ちになりましたね。

方向性を見失った結果、会社に行かなくなりました。僕、社長なんですけどね(笑)21歳頃のことです。そして、憂さ晴らしにも飽きたある日、会社へ行って「辞める」宣言をしました。当時の社員は30名くらい。事業は儲かっていたので、皆で自由に給料とって、後は好きにやってよと…(笑)若気の至りとも言えますが、そもそも社会全体への価値波及を目指して始めた事業です。このまま拡大を続けても、肝心の目的が果たせないと解った以上、どうしても譲れなかったのです。家に籠って数か月間、今後のことを考えていました。

人生初の就職と、初日から招いた苦すぎる経験。

株式会社サイバーセキュリティクラウド 代表取締役 大野 暉さん自分には修行が必要だ。そもそも会社を経営するなかで、組織づくりに強烈な課題を感じていました。僕が率いていたのは、会社と従業員との関係が、ほとんど給与の繋がりだけのような組織だったのです。各自が収入を追っていて、超個人主義的。もはや組織と呼べる状態ではありませんでした。会社の文化の良し悪しは、事業の発展に大きく影響します。社長の自分に課題があることは自覚していたので、まずは組織づくりを真剣に学ぼうと、企業に就職することを決意しました。

人生初の就職先は、スターフェスティバル株式会社でした。大学4年生のとき、偶然ご近所だった社長の岸田祐介さんに相談したところ、修行の機会を頂いたのです。僕の会社もスターフェスティバルも、2009年の設立。僕の会社は売上5~6億円、社員数30名。儲かっていたし、社員も高給取りでした。ただ、皆が会社の成長を自分事として捉え、仕事にやり甲斐を感じていたとは言えない状態。一方で岸田社長の会社は、まったく異なる空気感でした。全社一丸となって社名の通り〝お祭り騒ぎ〟のように仕事に熱中している環境でした。

このスピード感の違いは何だろう…?かつて楽天でも事業を担っていた岸田社長の答えは、「一つの大きなビジョンに向け、理解不能な速度で事業展開を続けていると、それが当たり前になる」というものでした。中小企業的な経営しか知らなかった僕には、いわゆるスタートアップの組織づくりが非常にエキサイティングに感じられ、ぜひ自分も挑戦してみたいと思いました。入社時の給与交渉で、「お前は22歳だから、月給22万円!」と云われた僕は、築50年超の安い物件に引っ越し、給与に見合った生活をスタート。大学に行くのは試験の日だけで、あとは仕事に没頭する毎日でした。

ちなみに入社1日目から、大失敗をしています。起業して、ちょっと成功した経験を持っていたので、とんだ勘違いをしていたんですね。僕はそれまで、年収2000~3000万円を取っていたし、自社の社員にも20~30代で年収1000万円クラスのメンバーが多数いました。一方で、会社員の一般的な月給の平均値は、20~30万円。正直、きっとレベルの低い人達なのだろうと見下していたのです。この考えが、あからさまに態度に出ていたようで、入社1日目から全員に嫌われました(笑)女性社員からは特に疎まれ、ほぼシカト状態。すぐに社長から呼び出され、「お前、大丈夫か?どういう生き方したら、そんな振る舞いになるんだよ(笑)」と怒られる始末でした。あのときは、心から猛省しました。さすがに翌日から出社できないかと思うほど、記憶に残る苦い経験でしたね。自分が未熟だったせいで、他にも数え切れないほど失敗をしました。組織のコミュニケーションや部下のマネジメントなど、実に多くのことを学ばせていただきました。

準備完了、サイバーセキュリティ業界へ!

株式会社サイバーセキュリティクラウド 代表取締役 大野 暉さん3年間の修行を終え、スターフェスティバルを退職しました。岸田社長からは数々のチャンスをいただき、おかげさまで結果を残すこともできました。さぁ、次は何をしようかと考えたとき、やはり「大きい会社を創りたい」という18歳からの想いに立ち返りました。

当時はビッグデータの「ビ」の字が出始めた頃。〝サイバー攻撃〟に関するニュースも、月に1回ほど聞くような時代でした。この辺りが次のインフラになるに違いない。そう直感した僕は、サイバーセキュリティ業界への参入を決め、リサーチを始めました。

サイバーセキュリティ業界への参入プランを作成し、周囲に相談していた際に、出逢った会社の一つがサイバーセキュリティクラウドでした。当時のサイバーセキュリティクラウドは、サービスを開始して1年ほど。既に主力商品『攻撃遮断くん』はリリースされていました。商品コンセプトは良かったものの、顧客基盤の拡大には、まだまだ課題を抱えた状態でした。一方で僕は、高校時代の広告業界の経験から、製品を手に取ってもらうためのマーケット選定や、2~3年先のトレンドの見極めなど、マーケティングやプロモーションを得意分野としていました。この経験はきっと、セキュリティ業界にも通用するはずだ。製品は素晴らしいのだから、その魅力が伝わるようビジネス全体をデザインし直せば、必ず結果は変わると思ったのです。そこで、社長に具体的なビジネスプランを提案し、経営を任せていただくことになったのです。

最初に取り組んだのは、既存のサービスを磨いていくことでした。現状の課題は何なのか、お客様の3ヶ年のセキュリティ設計はどうなっているのか、とにかく顧客の声を集め、製品やサービスに反映させていきました。その結果、ベースのコンセプトは一緒ながら、よりお客様から選ばれる製品へと進化していったのです。

事業継承の道を選んだ理由。

「Webセキュリティを当たり前にする」というのが、この業界への参入を考えたとき、僕が最初に持っていたコンセプトです。サイバーセキュリティクラウドに出逢ったとき、この会社と僕のコンセプトは同じだと感じました。しかし厳密には、その〝守り方〟に違いがあったのも事実です。そんな折、教育事業を手がける大手企業の情報漏洩事故が発生。原因は明らかに、社内の情報管理の不徹底でした。今後は外部からのサイバー攻撃が増えることは間違いない。攻撃に対して、〝きちんと対処していればWEBサイトは守れる〟という常識を、早く世間に広めなければ…。そんな使命を強く感じた、象徴的な出来事でした。サイバーセキュリティを、世の中の当たり前のインフラにしたい…。僕の想いは、やはりこの会社と共通していたのです。そのためには、ゼロから自分で立ち上げるより、一刻も早くこの会社の技術を活用し、拡散していくことが最善の選択だ。そんな経緯で、事業継承の道を選んだのです。

実績がモノを言うなら、日本一にすぐなろう!

株式会社サイバーセキュリティクラウド 代表取締役 大野 暉さん弊社には、「世界中の人々が安心安全に使えるサイバー空間を創造する」という理念があります。その実現に向けたステップとして、「WEBセキュリティを世の中の当たり前にすること」をテーマに掲げ、事業を推進してきました。〝当たり前〟とは、WEBサイト、サーバー、アプリなど、外からアクセスできるものが、ほとんど守られている状態を指します。一方で、その常識を社会に普及させていくには、影響力が必要です。だからこそ、まずは実績づくりが急務でした。僕は1年以内に日本一になることを目標に決め、とにかく〝最速で〟お客様に提供していくことを真剣に追求しました。具体的には、国内競合会社の実績を確認し弊社が獲得すべき実績を確認してやり抜きました。また、当時は外資系企業が圧倒的に強かったこともあり、スタートアップの僕らが信頼を得るまで、非常に苦労しました。当初の想定より時間を要しましたが、ANA様、清水建設様、銀行様など、名だたる企業や官公庁に採用いただけるようになり、日本一という実績目標も達成することができました。

シアトルに現地法人を設立。北米中心にグローバル展開へ。

これからの時代、サイバー攻撃からWebサイトを守るうえで求められるのは、最適な防御方法を適正価格で提供することと言えます。弊社には、ECサイトやコーポレートサイトなど、サイトの種別により想定される攻撃、お客様の事業内容や規模に応じて想定される攻撃など、あらゆる攻撃の傾向が、膨大なデータとして蓄積されています。これらのデータに基づいて、最適な防御方法を選択できれば、過不足なくセキュリティが実行され、適正価格を実現できるのです。弊社はその一連の流れを、人工知能により自動化していきたいと考えました。米アマゾンウェブサービスと膝を突き合わせ、技術開発に取り組みました。このアプローチはグローバル市場でも勝負できる可能性が見えてきたので、2018年9月末にシアトルで現地法人を設立し、北米中心にグローバル展開をスタートしました。現在、アマゾンウェブサービスのマーケットプレイスから購入できるAWS WAFのマネージドルールのラインナップには、なんと弊社の製品も並んでいます。弊社以外の6社はグローバル大手の製品ですから、我ながら大きな一歩を踏み出せたのではないかと感じています。今後は人工知能を活用したサイバーセキュリティの最適化をテーマに、さらなる技術を磨いていきたいと思います。

大野社長が描く、サイバーセキュリティクラウドの未来。

今後は日本と北米を中心とした事業展開を考えています。北米は、コアグローバルシェアの半分を担っているマーケット。ここで実績を築ければ、真の意味で世界に進出できると思っています。引き続き、地道な実績づくりに励むのみです。また、インフラ、技術の環境は、日々刻々と変化しています。IoT分野への投資も然り、セキュリティにまつわる新たな領域へのチャレンジも、もちろん視野に入れています。近い将来、人の生命や財産、暮らしのすべてが、セキュリティの担保なくしては成り立たない時代が来るかもしれません。「世界中の人々の安心安全」を理念に掲げる弊社には、その領域に深く入り込み、理念を実現していく責任があると考えています。


◆ 編集後記 ◆

今回、大野社長のインタビュー前に、マーケティング担当の方から、事業内容に関するご説明をいただいた。デザイン系の学校で、グラフィック・写真を専攻していた彼女は、新卒入社5年目。会社がまだ数名の立ち上げ期に入社したメンバーで、社長と共に数々のチャレンジを乗り越えて来たのだろう。20代とは思えないような毅然とした対応に、つい背筋が伸びる思いがした。

さて、少し遅れて登場した大野社長。180㎝の長身、なかなかのイケメンである。今年は『攻撃遮断くん』が、「日本クリエイション大賞2018」の大賞を受賞したそうで、社長は前日、帝国ホテルで行われた授賞式に参加。2時間半を超える講演の後、30名以上の名刺交換ラッシュに遭ったそうで、この日は咳が止まらない様子だった。

インタビューを通じて、どんな質問にも即答する大野氏だったが、ある質問にだけ、やや長めの沈黙があった。それは、「事業を創るときの原動力は何ですか?」という問いだ。「よく聞かれることなんですが、言葉にしづらくて…。シンプルに言えば、楽しいからやっているとも言えます。僕にとって、呼吸している理由を聞かれるのと同じくらい、答えに困る質問なんです。好きなんですよね、モノを創っているのも、お客様に喜んでもらうのも。」…考えてみれば、彼は16歳からずっとビジネスの世界に生きてきた男だ。呼吸をするのと同じように、当たり前の感覚になっているのかもしれない。そんな大野社長だが、なんとまだ若干28歳!北米進出を遂げ、アマゾンウェブサービスとの協力を実現するなど、未来に大きな夢を見させてくれる存在だ。日本にこんな20代がいたことを知り、勝手に誇らしく思ってしまった。これからどんな大物になってしまうのか…。大野社長の将来から、今後も目が離せない。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2019年6月10日