株式会社シャノンは、マーケティングオートメーション領域において、業界のリーディングカンパニーとして、圧倒的な存在感を放ち続けている企業だ。2017年には上場も果たし、常に注目を集めてきた同社。事業に関するインタビューは他メディアにも多く存在するため、我々は今回、創業者である中村氏の人物像にフォーカスして取材を行った。彼が大きなビジョンを成し遂げてきた背景には、どのような出来事や思考があったのか…。夢に向かってチャレンジを続ける読者の皆様へのエールとして、そのエッセンスを感じ取っていただければ幸いである。

国内導入実績900件以上!
テクノロジーとサイエンスで、企業のマーケティング課題を解決へ導く。

弊社はクラウド型のマーケティングシステム『シャノンマーケティングプラットフォーム』を、企業様向けに提供している会社です。展示会やイベントなど、オフラインマーケティングを支援する「イベントマーケティング」に加え、マーケティングや営業活動全般をシステムで統合管理・自動化し、戦略的かつ効率的なビジネスを可能にする「マーケティングオートメーション(MA)」として、国内900件以上の導入実績をいただいています。ソーシャルメディア、モバイル、ビッグデータなど、トレンドやテクノロジーが目まぐるしく変化する今、企業と顧客の接点は、ますます多様化しています。弊社のミッションは、企業様にとって複雑化したマーケティングプロセスを、テクノロジーとサイエンスにより〝再現可能〟な仕組みとして提供すること。マーケティング戦略の具現化や効果分析をはじめ、マーケティングコンサルティングサービス全般を担うことで、企業様への継続的なサポートにも注力しております。

株式会社シャノン 代表取締役社長 中村 健一郎さんやんちゃなガキ大将から一転!将来を案じて、勉強に励んだ中学生時代。

生まれは奈良県。田んぼだらけの田舎町出身です。会社員の父、茶道を教えていた母のもと、姉と2人兄弟の家庭で育ちました。小学校から帰ると、母が茶室で稽古をしていて、「皆様、いらっしゃいませ。」と、〝マルコメ君〟でおなじみの丸坊主頭を下げ、正座で挨拶していた記憶があります。一方で、学校では典型的なガキ大将タイプ。人の言うことはきかないし、落ち着きのない子どもでしたね。先生からは叱られてばかりで、廊下に立たされるなんて日常茶飯事。教室の外を巡回していた校長先生と、気づけば仲良くなっていたほどです(笑) それでも自然と輪の中心にいることが多く、4年生くらいからは学級委員を任されるようになっていましたね。

当時の成績は、体育が「5」で、図工が「4」、他の科目はオール「3」。成績なんて、当時は気にも留めませんでしたが、中学生になった途端、心境が一変します。どうやら世の中は、勝者の限られたピラミッド型になっているらしい…。もしも高校受験に失敗すれば、その時点でもう、名の知れた大学への道は閉ざされたも同然…。京大のような難関大学を目指すなら、県内トップの高校への入学は絶対だし、その先もまた、狭き門…。思春期の多感な時期だったせいか、異様な強迫観念に襲われた私は、真剣に勉強するようになりました。別に具体的な夢などないし、周囲からのプレッシャーもありません(両親から「勉強しなさい」と云われた記憶もない)。ただ、目の前の勉強を怠ったせいで、後に大事なチャンスを失いかねないという可能性には、異常なほどの恐怖心があったのです。あとは、当時付き合っていた女の子が成績優秀者だったので、負けたらカッコ悪いという意地もありましたね(笑)

志望大学への合格は叶わず上京。キャンパスライフ当初に味わった虚無感…。

県立の進学校に入学してからは、一転してバレーボールに没頭します。3年生の夏までは、ほとんど部活一辺倒の生活。志望していた京大の現役合格など間に合うはずもなく、浪人して再挑戦もしましたが、念願は叶わず…。慶応大学の理工学部化学科に進み、東京での生活が始まりました。入学当初はサークルに顔を出すなど、学生らしい活動も試みたのですが、これがまったく面白くない(笑) 部活動や受験勉強に没頭してきた日々の反動でしょうか。急に目標を失った私は、心にぽっかりと穴が開いたような状態に…。「何のために大学へ行くのだろう?」「生きる目的とは何だろう?」…と、ニーチェやキルケゴールの哲学書に答えを求めた時期もありました。

お金が欲しくて始めたアルバイトで、思わぬ才能を発揮!

とはいえ、学費を銀行からのフルローンで進学していた私には、いつまでも悩んでいる余裕はありません。別の借金までつくってしまって…(笑) 一刻も早くお金を稼がなくてはと、一定期間は授業も行かずにアルバイトに専念しました。その当時、とにかく収入重視で選んだのが、月給35万円の販売の仕事。各地の家電量販店に派遣され、来店客にプリンターやPCを販売するのです。当時はまだ、ノートパソコンが50万円もする時代。しかし、一般人の月給を超えるような高額商品でも、特徴やスペックの違いを丁寧に説明すると、ポンっと買っていくお客様がいるのです。このとき初めて、販売の面白さに目覚めましたね。根っからの負けず嫌いだった私は、全国約400名が競う販売成績ランキングにおいて、常にトップクラスの優績者だったので、かなり目立ったのでしょう。あるとき本社からの異例の任命で、販売員を採用・育成するポジションに誘われたのです。若干20歳の学生が、一人前にデスクを与えられ、アルバイト求人の掲載から面接、採用、研修、現場への派遣まで、すべて担うことになりました。このとき経験した膨大な数の面接や育成業務は、人材の採用・育成に関するノウハウの発見にも繋がり、私に多くの学びを与えてくれました。

働き詰めの生活に終止符。学内〝ITベンチャーごっこ〟のリーダーに。

約1年で借金も無事に完済。しかし、働き詰めの生活に疲れてしまったのでしょう。大学2年生のとき、結石の激痛で倒れてしまいました。病室の天井を眺めながら、これからどうしようかと思案した結果、当時ブームだった〝ベンチャー〟に関わることを仲間でやってみようと思ったのです。流行っていたとはいえ、誰もが〝関心がある〟という程度。実際に起業している人など、ほぼいません。我々も〝ベンチャーごっこ〟に近い趣味のレベルでしたが、『Yahoo!』のような検索エンジンを皆で作ろう!…と、学内でITに明るそうな人を口説いて回り、仲間を集めました。〝出世払いアルバイト〟という名目で、メンバーは律義にタイムカードを付けていましたが、彼らに報酬が支払われたことは一度もなかったですね(笑) 一つのゴールに向かって、皆でわいわいモノづくりに没頭した時間は、非常に楽しいものでした。

就職活動を目前に、やりたいことが見つからず絶望。死を決意する。

自分は人生、何をしたいのだろう…? 大学3年生の就職活動を機に、自身に問いかけました。2~3ヵ月間ずっと考え続けた結果、ようやく辿りついた答え。それは、「やりたいことなど何もない」…という、あまりに淋しい結論でした。将来の自分に具体的な夢が見つかったとき、学歴が味方してくれる可能性を考えたからこそ、過去の自分は受験勉強だって頑張ってきた。しかし結局、やりたい仕事さえ見つけられない情けない現実に、心から絶望してしまったのです。もう、生きていても意味がない…。死のう。あまりに極端な思考に驚かれるかもしれませんが、当時の私は本気でした。しかし、まさに自殺を図ろうとしたその瞬間、ふと両親のことが頭をよぎったのです。まだ、死んではいけない…。自分はずっと、両親から見守られ、恵まれた環境で生きてきた。それなのに、その幸せに気づきもせず、自分のことしか考えていなかった。おまけに死のうとするなんて、なんて身勝手で愚か者なのだ…。生まれて初めて、自分の夢が見つかった瞬間でした。世の中には、親のいない人だっている。彼らのために、自分に出来ることをやり尽くして死ねる人生があるのなら、それも悪くない。どうせ死ぬ気でいたのだし、そのためにもう一度、生きてみよう――!

そこから人生、再出発です。どうせなら、中村健一郎という人間が、この世に存在しなければ起こらなかったことを実現したい。親なき子どもを救うといっても、たった一人の子どもを支えたところで世界は変わらない。それなら、100人くらいは何とかしよう。100人の子どもの人生が変われば、その先に、社会問題の根本解決へ繋がる糸口も見えてくるかもしれない…。とはいえ、100人を養うには相当な資金が要ります。そのために私が考えたのは、3つの解決策でした。(1)起業して成功する。(2)ノーベル賞を受賞する。(3)大企業の最年少社長になる。3つの選択肢の中で確実性を考えたとき、結局は〝自分次第〟の起業しかないとう結論に至りました。私にとって起業は、ようやく見つけた夢を実現するための手段として、消去法で選んだ道だったのです。

株式会社シャノン 代表取締役社長 中村 健一郎さんIT分野を事業領域に選んだ、意外な理由。

大学4年生。起業を決意したものの、資金はありません。事業内容を決定する条件は、お金がなくても始められることでした。その結果、パソコン一つで始められるITビジネスになったのです。私は理系とはいえ、あくまで一般的なユーザーレベル。決してITに詳しかったわけではありません。ただ、この分野に勝算があると思えたことが1つありました。それは、他の分野に比べて、圧倒的に歴史が浅いこと。当時は本屋へ行っても、IT関連の書棚は1つしかなかったのです。私が専攻していた化学の世界なんて、論文は死ぬほどありますし、教授は生きる百貨辞典のような人物。どう考えても、勝てる見込みがないのです。その点、ITには歴史と呼べるものが未だなかった。先行者がいるとはいえ、彼らが圧倒的なアドバンテージを持っているわけではないと考えたのです。

起業に対する不安はなかったかというと、私の場合、死んだはずのところからがスタート。失敗したら死ねばいいと思っていたので、さほど不安はありませんでした(笑) あとは、人材派遣のベンチャーで働いた経験が、ビジネスに対する心理的なハードルを下げていたかもしれません。当時その会社では、30代の若い役員がビジネスを動かしているのを、間近で見ていました。「ビジネス」というと何やら仰々しく聞こえますが、要はお客様が困っていることを解決してあげて、「ありがとう」と言われることで、お金がもらえるというシンプルな仕組み。決して特別なことではないというのが、私の認識でしたね。

「できます!」…と即答し、あとから必死で仕上げた初仕事。

記念すべき初仕事は、かつてバイトでお世話になった人材派遣会社の先輩が紹介してくれました。なんと最初から、大手企業の開発案件!展示会のオンライン申込みシステムを作れないかという依頼でした。展示会の入場時に、首から下げるバーコード付きの名札がありますよね?今や常識となったシステムですが、2000年に日本で初めて量産化したのが、実は弊社なのです!当時はまだ、企業にWEBサイトも存在せず、オンラインで申し込むという概念さえなかった時代。イベントのオンライン申し込み、チケットバーコードを通じた来場者データの管理システムを海外で体験し、ぜひ日本で再現したいというイベント運営会社からの依頼でした。日本のSIベンダーには、「前例がない」という理由で断られたとのこと。ひとまず私は「できます!」と即答し、あとから辻褄を合わせました(笑) 今だから言えますが、「打合せで何度も〝オラクル〟という言葉が出たけど、いったい何のことだろう?」…と、帰りに本屋へ駆け込んだ記憶があります(笑) 勉強しながら一心不乱に取り組んだ結果、システム開発は無事に成功。大変喜んでいただき、そこから仕事が拡がっていきました。

採用に苦労した、起業当初の思い出。

起業1~2年目は、ひとまずメンバーが来月、再来月を食べていければ良かったし、顧客からの評価も高く、案件も継続的に頂けていました。一方で、事業拡大においては、まったく人手が足りません。中途採用を何度も試みたものの、結果は惨敗。考えてみれば、当時は日吉の6畳部屋に6人、デスクに丸まって眠るような酷い状態・・・。こんな会社に、中途入社者が来るはずないのです(笑) そこで、思い切って引越しを決意。自由が丘に居を移し、より広い部屋を借りることにしました。とはいえ現実は、エレベーター付きの綺麗なマンションとは違います。前の入居会社の居抜き物件のような電話付きの部屋で、いかにも怪しい空模様の壁紙…(笑) こんな場所だし社長の私は23の若造ですから、やはり中途採用は現実的に難しい。そこで、新卒採用へと戦略を変え、リクナビに掲載してみたのです。すると、定員100名の会社説明会が、一瞬で満席に!その当時、ベンチャーに関心のある学生が結構いたんですね。結果的に新卒採用は功を奏し、6~7人の内定を出すことができました。彼らの1年後の入社に向け、売上を倍にしようと一気にアクセルを踏み、さらに広いオフィスを赤坂に借りました。創業メンバーと共に走り抜けた、懐かしい思い出です。

事業飛躍のターニングポイントとなった、新製品開発への決意。

起業してから毎年365日、とにかく働き詰めの日々。3~4年目を迎える頃には、既に疲れ果てていました。そのくせ、思ったほどの利益は出ておらず…。理想と現実のギャップに、焦燥感は募るばかりでした。当時はサイバーエージェントの藤田社長が、メディアで脚光を浴びていた頃。同じIT業界にいながら、成長への行き詰まりを感じていた当時の私には、非常に眩しい存在に思えました。明確に解っていたのは、現状を続けても、理想の未来には届かないということ。ならば、何かを変えなければ…。散々もがいた先に辿りついた結論。それは、新製品をつくることでした。既存の製品は、顧客ごとに都度の開発が必要でしたが、会社の成長を加速させるには、顧客にとって価値あるパッケージ型の製品を開発し、大きく拡販していかなければ間に合わないと考えたのです。ところが、新製品の開発費用を試算してみると、なんと2億円もかかることが発覚!当時の弊社の売上は若干1億円弱ですので、どう考えても足りません。しかし、ここで勝負しなければ、5年後の未来はない!私を信じて付いてきてくれた仲間にも、このままでは申し訳がない…!腹をくくった瞬間でした。なんとか1億円は銀行から借り入れを行ない、初めて書いた事業計画書を手に、VCや投資家50社以上を訪問し、投資を募りました。最終的には資金調達に成功。その後も困難の連続でしたが、念願の新製品をリリースすることができたのです。このときの決断が、弊社にとっての大きなターニングポイントとなりました。もしも現状を続ける選択をしていたら、今のシャノンはなかったと確信しています。

株式会社シャノン 代表取締役社長 中村 健一郎さん中村社長が描く、今後の展望。

そこから10年を経て、ようやく上場まで漕ぎつけました。製品の開発においても、思った通りに作れない、売れない、お金が回らない…などなど、当時は次から次へと問題のオンパレードで、どうにもならない辛さを何度も乗り越えてきました。大きく事業モデルを転換する過程においては、社員の半分が辞めていくという苦い経験もしています。面談などで社員の会社に対する不満を一人ひとり聞きながら、私自身を全否定されたような気分を味わう日々…。期待に応えられなかったことへの申し訳なさと、やるせない気持ちでいっぱいになります。多くの経営者が、こうやって折れるんだな…。この辛さに対して、リターンが全然かみ合っていない。会社経営なんてするもんじゃないと、何度も思いました。とはいえ、辞めるわけにはいきません。連帯保証人のサインは、すべて私の名前ですし(笑) 辛くて折れそうになったとき、最終的に支えてくれたもの。それは起業の原点となった、燃えるような願望でした。親なき子ども100人を育てる…。それを実現するまでは死ねない!どんな困難に遭遇しても、やり遂げる理由に立ち戻り、自分を奮起させました。この夢と情熱がなかったら、とうの昔に挫折していたと思います。

いろいろ遠回りもしましたが、ようやく当初の夢に着手できるステージに辿り着いた感があります。私は会社経営を通じて、多くの貴重な経験をさせていただきました。いったい何が社会にとってサステナブルで、全方位的な結果を生むのか、理解することもできました。私には、その恩返しをしていく責任があると思っています。子どもの貧困や虐待問題、それに伴う大学進学率の格差など、世の中に存在する負の連鎖を断ち切るような仕組みを、これからぜひ創っていきたい。まだまだ自分自身も道半ばですが、子どもたちの可能性が輝く社会づくりに、少しでも貢献していきたいですね。


◆ 編集後記 ◆

学者?研究者?音楽家…?カーリーヘアに個性派メガネの芸術家然とした風貌が、なんともユニークな中村社長。彼のユーモア溢れるトーク術に、終始笑いの絶えない和やかな取材となった。

「すべての衝動は、〝強烈な負けず嫌い〟に起因していたと思う」…と、彼は過去を振り返る。たとえば、小学生時代の興味深いエピソードを紹介しよう。中村社長が小学1~2年生の頃、彼が一緒に遊んでいたのは、6年生や中学生など、年の離れた先輩男子たち。その結果、同級生と並ぶと、なかなかの「おマセさん」だったようだ。たとえば、同級生がミニ四駆に熱中していた頃のこと。既にミニ四駆が流行る前に遊び尽くしていた中村少年は、そんな彼らを横目に、自分はラジコンカーの組み立てに熱中していた。新しいモノには誰より早く手をつけ、ブームが起こった頃には既に飽きている…という状態。負けず嫌いな少年にとって、きっと爽快な景色だったことだろう。

また、さらに驚きのエピソードもある。どこまで遠くへ行けるかを競い合う、いかにも子供らしい遊びにおいて、中村少年のとった行動とは―――?!なんと、自宅のある奈良から大阪まで、自転車で行ってしまったのだ!地形上、往路は下り坂だが、復路は小学1年生の脚力では到底かなわぬ上り坂…。途方に暮れた少年は、仕方なく自転車を自力で押して帰り、自宅に着いたのは真夜中だったそうだ。ご両親も大いに心配したことだろう…。このように、彼の〝負けず嫌い〟には、いつも並外れた行動力が伴う。それは、自社製品の開発資金を調達するため、約50社に及ぶVCや投資家に、事業計画をぶつけ続けたというお話にも、少年時代と変わらぬ性質が伺える。上場も果たした今、将来は子どもの貧困など、社会問題を仕組みで解決したいと意気込む中村社長。再び何か、とんでもないことを仕出かしてくれることを期待したい。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2019年3月25日