2000年に株式会社リクルートから独立。企業向け組織人事コンサルティングや、採用戦略コンサルティングサービスを提供し、創業わずか8年で東証一部上場を果たした、株式会社リンクアンドモチベーション。今回は、代表取締役会長の小笹芳央さんにお話を伺った。現在では、「BtoB」から「BtoC」への展開や、スポーツや飲食のエンターテインメント事業、個人の学習や資格取得支援のアカデミー事業などにも力を入れ、グループ売上187億と成長をとげている。

スポーツ少年時代から苦労の大学受験

幼い頃からスポーツ万能。小学校では野球部のキャプテン、さらにはピッチャーで4番を務め、当時は甲子園を目指していたと話す小笹さん。中学校でも 野球を続けるつもりが、不祥事により野球部が廃部に追いやられてしまったことがきっかけで、ラグビー部へ入部することになった。

「野球部には入れないけれど、高校で甲子園を目指すなら、一番強い部活で鍛えておこうと思いました。そうして入ったのがラグビー部だったんですね。 ラグビーはポジションを獲得していくスポーツ。一種独特の半分不良、半分男気のある熱い友情や絆で結びつけられた集団が心地よかったですね。当時はとても 強かったので、モテたんですよ(笑)。高校合格後もラグビー部にスカウトされ、入学前から練習に参加させてもらっていました。他の学校からも強い選手が集 まっていたので、我々の代は強いチームでしたね。本当に、中高はラグビー漬けでした。一方勉強なんて学年で552人中、552番(笑)半分不良のラガーマ ンでしたね。一度1年生の頃にラグビー部の仲間と家出をして、20歳だとごまかして家を借りて住んでいたこともありました。3ヵ月で見つかって連れ戻されてしまうんですがね(笑)なんでしょう、実家が8坪の長屋で風呂もない家だったので、もっと自由に羽ばたきたい、狭い世界から飛び出したいという気持ちがあったんでしょうね。」

そんな小笹さんだが、ラグビー部を引退後、大学受験に挑戦。しかし、合格できずに浪人生活へ突入する。ぎりぎりで入った駿台予備校の私立文系コースに通うべく京都に引っ越し、一人暮らしの生活をしながら1日14時間机に向かった。

「自分がなぜ真剣に大学へ行こうと決意したかというと、きっかけの一つには2歳年下の弟の存在がありました。弟はかなり素行が悪くて、いろいろ問題 を起こしていたりしたので、僕がしっかりしなきゃという想いで、必死に勉強しました。そうして、たまたま第一志望の早稲田に受かったんですね。当時は、将来なにをやろうかは考えていませんでした。でも、幼少のころからいつもリーダー的な立場でいたので、どこかで何か上に立ちたいなという気持ちはあったように思いますね。」

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「居場所」となったツアー団体立ち上げ

早稲田大学に入るも、はじめは周囲と馴染めずに1年が過ぎてしまう。

「周りは“東大に落ちて早稲田の政経にきた”みたいなまじめな人たちばかりで、濃密な任侠の世界(笑)からポンとひとり東京に来た自分とは世界が違 いました。はじめの1年間はすごく寂しかったですね。唯一あったのが、麻雀です。なんとか友達はできましたが、濃密な人間関係ができなくて、どこか満たさ れない思いがありました。でも、せっかく東京にでてきたのに環境適応もせず、自分はこんな小さなことでとどまっていていいのかと思い、東京で一旗揚げよう と学生団体を立ち上げました。このスイッチが入ったのが2年生の学園祭の頃です。
早稲田祭では催し物を紹介するパンフレットを作り、仕切っている学生団体がありました。そのパンフレットを買わないと学園祭に入れないようになっていて、 たくさんの人から入場料として400円をとっていました。それを買うために長い列が出来ていたのをみて、そこに目を付けました。
誰もこのパンフレットが欲しくて並んでいるわけではないと考え、仲間何人かで何十冊かパンフレットを買って、列の最後尾に並んでいる人に『これ、なぜ並ん でいるか知っていますか。これはパンフレットがないから入れない人たちが、パンフレットを買うために並んでいるんです。私たちはたくさん持っているので、 貸しましょうか。』と声をかけました。パンフレットを貸して、正門を入ってすぐの大隈重信の銅像の所で、同じスタジアムジャンパーを着ているスタッフに返 してもらうようにしていました。最後はスタッフと記念写真を撮り、後日郵送するといって名前と住所と電話番号を教えてもらっていました。送料など全て込み で300円でした。これが大変うけまして、学祭が終わった後にはすごい数のリストが出来上がっていました。今思えば、かなりの個人情報の数です。このリス トをもとに、当時流行っていたスキー旅行などを企画運営する学生ツアー団体をスタートしました。一緒に写真を取ったり、会話をしていたり、コミュニケー ションをとった人たちだったので、企画者側の顔が見える安心感もあったのだと思いますが、他の友達まで誘って参加してくれる人が多かったんですね。
はじめからツアー団体をやろうと考えていたわけではなく、パンフレットの料金が他の団体の資金源になっているということに腹が立ち、なんとかしてやろうく らいの感じでした。ところがやってみると、一緒に活動したスタッフたちも楽しんでいて、いくら収入があったとか今日何人と写真を撮ったとかリストはこれだけになったというやりとりから充実感を感じていたのだと思います。」

学生団体を一生懸命やったことで、学内で自分の生きる基盤ができた。リーダーとして大きな組織をまとめる傍ら、いよいよ就職活動に突入する。

リクルートとの出会い

「前半戦は証券会社と商社を中心に受け、後半は商社一本で受けました。そんな中で、商社に内定が決まり、商社マンになる寸前で、リクルートから電話がかかってきたんです。次の日に呼び出されたのですが、連絡もせず、すっぽかしてしまいました。すごく失礼な学生ですよね。でも、またその次の日の夕方に、 『昨日はどうしたの?待っていたんだよ』と電話をくださって、さすがにこの大人を裏切ったらいけないなと思い、翌日に会いに行きました。そこで就職活動の ことや学生団体のことを話していると、あの人この人この人あの人って5人の方とお会いして。最後は人事部長に口説かれ、その日のうちにリクルートに入社すると心に決めていました。だから、リクルートがどんな事業をやっているのか知らなかったですね。そんなことより自分の話をこんな大の大人が耳を傾けてくれ ていることに驚き、そこに魅力を感じました。その後、内定してからリクルートがどんな事業をやっているかを知ることになり、カタログや雑誌を見せられ、まったく興味ないなと思い、ちょっと揺れたりもしましたが(笑)
入社後は人事部に配属されました。自分を口説いてくれた人事部長が、自分を下に置いてくれたんですね。採用担当としてスタートしたのですが、それがすごく 性に合っていたんでしょうね。学生団体のときのスタッフの勧誘や顧客獲得とある意味同じで、見えない魅力を伝えて感化するという部分で適性があったと感じ ます。結果として、採用担当としては7年間人事部にいたので、かなり活躍できたと思います。」

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31歳で経験した三重苦

「31歳のときに、3つのことが重なって、トンネルのような時代がありました。まず、人事から慣れない環境の営業に異動しました。そして同時期に、父親が 亡くなりました。さらには、ひどいぎっくり腰になりました。さすがに3つ重なって心が折れかけましたね。特に腰を痛めたことで、それまではまりかけていた ゴルフができなくなって、歩くことも困難な状態だったため、家にいて本を読むしかありませんでした。いろいろな本を読み始めたのはこの時からです。何かを 探したかったのと、当時リクルートにあったワークデザイン研究所で手に取った本が、日本語で書かれているのにも関わらず1ページ目から理解できないということが悔しかったことがきっかけで、いろいろな本を先輩たちに教えてもらい、哲学、社会学、経営学、心理学など、とにかく片っ端から読み漁りました。今の アウトプットの基盤となることをインプットしたのがその2,3年間です。それがその後のコンサルティングセクションの立ち上げにも役に立ちました。当時の 集中的な読書が今に活きています。」

企業経営に大切なのは“人”。
人のモチベーションこそが企業経営に大事だということを伝えるべく、起業。

人事部から新規事業部署の立ち上げとめざましい活躍をしていた頃、不況による過度な成果主義制度、人員削減など複合的な要因で人材のモチベーション が奪われていたことを危惧し、起業を視野に考えるようになる。一方で、弟も起業し、関西ではトップクラスのリフォーム会社の経営者として活躍していた。

営業に異動して一番ショックだったのは、「リクルートの仕事はコンサルティングの要素もあるから」と語って採用した後輩達のモチベーションが下がってしまっていたこと。

「このままでは彼らに嘘をついたことになる、という思いから、組織人事コンサルティング室というセクションを立ち上げました。その後順調に事業は拡 大し、年間12億円くらいの売上を上げることには成功しました。新しい事業を興すというのは起業するのに等しい体験でしたから自信がつきました。更に、当 時のリクルートの商材をコンサルティングの思想で再編成させたいと思ったんですね。しかし経営ボードに提案したところ、受け入れてもらえず、それならば独立しようかなと考え始めたのが1999年9月頃です。部下たちから『小笹さんが起業するなら、自分達もついていく』と言ってもらえたこと、またやんちゃ だった弟も会社経営に成功していたため、不安というのはありませんでした。当時、超不況のなかで過度な成果主義、人員削減も行われ、働く人たちのモチベー ションが奪われていたんですよね。でも私は、企業を支えているのは人じゃないかと、人の中でもモチベーションが大事なのだと考えていました。それに、リク ルート時代から、受け継いできたDNAがあったので、やるからには事業を大きくさせたいと思っていました。起業したのは、自分が掴んだ確信を、発信したかったからでしょうね。だから社名にもモチベーションをつけました。」

「企業に対しては、“モチベーションカンパニー”になりましょうと伝えています。それだけではなく、個人に対しては“アイ・カンパニー(自分株式会社)”になりましょうということを提言しています。その両輪で会社経営をしています。
“アイ・カンパニー”と言っているように、個人は、自分自身が株式会社の経営者になったつもりで自分創りをし、主体的に人生やキャリアを切り拓いていくべ きです。リンクアンドモチベーショングループでは、その“アイ・カンパニー”を磨くためのコンテンツを提供しています。資格取得支援スクールや学習塾、学生のキャリア支援事業などでも“アイ・カンパニー”という考え方を土台として、しっかり生きていきましょうと伝えています。

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これからのリンクアンドモチベーショングループについて

「リンクアンドモチベーションでは、もともと企業に対する社員のモチベーションを高めたり、社員を束ねたりする方法を支援してきました。言い方を変えれ ば、働き甲斐づくりを支援してきました。モチベーションエンジニアリングという自分たちの基幹技術をさらに広げるならば、生き甲斐づくりまで広げられる。 今後は、企業向けのビジネス部門、個人の学びを支援するアカデミー部門、そしてスポーツチーム運営とレストラン営業を行っているエンターテインメント部門。その3本柱で拡大していきたいと思っています。エンターテインメント部門でもやりたいことはいっぱいありますし、語学の学校や留学支援などアカデミー の方でも、やりたいことはまだまだたくさんあります。ビジネス部門でも力を入れなきゃならない部分は残っています。
現在、新卒採用支援の分野ではアジアへも展開しています。グループ会社の株式会社リンクグローバルソリューションでは、日本人をグローバル化させるという 観点で、海外に赴任する人たち向けに赴任前研修を提供しています。具体的には現地の習慣や暮らしぶりなど異文化理解をしてもらえるような内容で、全世界 30数カ国対応できるようになっています。」

小笹会長にとっての起業とは

「僕の中で起業して会社を経営するというのは、コミュニケーション行為だと思っています。よく起業志望の若手に対していうのは、社会に対して何か言いたいことがたまっているんだったら起業しなさいと言っています。起業というのは言いたいことを社会に伝えること。その発信基地としての会社であり、伝えるためのメディアが商品やサービスのラインナップなんだと思います。」

時代の先端を見据えながら、様々な方法で企業や個人に対してモチベーションアップを支援し、想いを発信し続ける小笹さんの今後の展開から目が離せない。

四分一 武 / 文:Lily編集部

メールマガジン配信日: (前編)2013年8月21日 (後編)2013年8月28日