日本橋の某ビルのワンフロアを拠点とし、1999年の創業から「自動車流通業界において、お客様の満足と加盟店様の繁栄に最大の喜びを実感できる人・組織になる」という企業理念のもと、全国各地に中古車の買取りと販売のFCチェーン「カーセブン」を展開。2013年には全国100店舗を突破する。中古車業界の革命児とも呼ばれる、株式会社カーセブンディベロプメント 代表取締役社長 井上 貴之さんにお話を伺った。

非常ににこやかな表情で登場し、インタビュー中も井上さんの持つ気さくで飾らないユーモアのある軽快なトークで、我々を和ませてくれた。3男坊の末っ子として生まれ育ち、大学卒業後は大手銀行へと就職し何不自由なく過ごしてきた井上さんが、現在の社長業に就いた経緯とは。学生時代から現在に至るまでをお話しいただいた。

最近では、経済産業省主催の「中小企業IT経営力大賞」でIT経営実践企業へと認定されたり、日経BP主催の「Cloud Innovation Award 2013」で日経SYSTEM賞を受賞されるなど、ビジネス界での話題が尽きることのない。中古車査定システムとしてiPhoneやiPad、Androidのスマートフォン/タブレットで利用できる「インスマートシステム」を同業界で初めて導入するなど、よりユーザーにとって利用しやすい時代を見据えたシステムの開発に精力的だ。
今をときめき業界をリードするカーセブン、率いる井上さんの姿勢は一体どのようにして築きあげられたのだろうか。

島耕作に憧れて、“世界を股にかける”サラリーマンになりたかった

高校時代に島耕作に憧れて、サラリーマンになりたいという夢を持ったという。
「どうせサラリーマンになるなら、世界を股にかけるサラリーマンになりたい。」と、漠然と総合商社を志望するようになった。
高校時代は音楽部でチェロを弾き、大学1年ではバックパッカーとして海外を旅行し、大学2年で宅検と簿記の勉強を始める。「新しい知識を得ることは楽しい。」と思うように。
就職活動期に入り、200社以上という莫大な数の企業の面接を回ったりOB訪問をしたり、大学で自身も志望していた商社志望の学生を集めた『商社志望の 会』を創設し雑誌の取材も受けたりするなど世間からも注目を浴びることとなった。商社志望として突き進んでいたはずだったが、就職活動中のとある先輩との 出会いから、個人から中小企業、大企業にわたって幅広い業務を預かれる銀行員という職業に魅了され、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に就職を決める。

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与えられた環境の中で楽しさを味わいに行く姿勢

5年間で3つの支店を経験する中で、天文学的な数字の営業ノルマを課されたこともあったという。その経験の中から「何が何でも達成してやる。」という強い意志が培われた。また、「本気になってやらないと、物事は成し得ない。」という今の姿勢に通じる教訓を得たという。
銀行員として多岐に渡る業務をこなし、魅力的な人々との出会いもあった。しかし、日本の銀行制度の大きな障壁となっている担保や格付けのある間接金融に限界を感じるように。

銀行による貸し剥がしが問題になった頃、ある取引先で、どうしても創業者の奥さま名義の不動産を担保として回収しなければならないという仕事があった。

「所有していた不動産は娘さんの結婚資金として残したいという方だったのですが、そこをなんとか交渉をしまして。結果として営業所からはよくやった と拍手で迎えられましたが、印鑑を押してもらって営業所に帰るまでの間僕は涙を流していましたからね。自分はなにをやっているのかと。
そこで、銀行という商売は面白いけれども、長くいるのではなく自分で商売をやろうと思いました。」

不況の影響を受けリストラが続く状況下で、口を開けば愚痴をこぼす後輩に対し「自分が与えられた環境の中で楽しさを味わいにいけるようにならないと、どこに転職しても同じだ。」
そして先輩に対しては、「せっかく採用した若い金の卵に、銀行員にしか味わえない面白みを教えてやって下さいよ。」と言い残し、5年間勤めた銀行を退職する。

思わぬ転機として中古車業界に飛び込む

銀行を退職する数か月前から、間接金融の銀行ではなく直接金融のファイナンスの世界に足を踏み入れることを決めていた。

しかしそんなさ中、父の経営していた会社も含めた自動車販売会社6社が1999年に結成したカーセブンの前身である日本自動車流通研究所の話が舞い 込む。3人兄弟の末っ子であった井上さんは幼い頃から父に「お前は自分で生きていけ。」と言い聞かされていたこともあり、自動車業界に行くつもりはなかっ たという。各社の社長たちはそれぞれにこの事業をこうしていきたい、という熱い想いを抱いて参加しているのだが、実際に実行するわけではないからなかなか 前に進まない状況だったという。当初集まった会社の中で一番規模が大きかったのは井上さんの父の会社であり、父も兄もそれぞれに事業を持っていたため、 “井上家の中で自由なのは自分しかいない。この状況で責任者となり実働部隊を作って事業を拡大していけるのは自分しかいない”と思い、入社を決める。入社 とほぼ同時に、社名を現在のカーセブンディベロプメントに、そしてボランタリーチェーンであった会社形態を、フランチャイズチェーンへと移行していくこと にした。

苦境からの脱出

ところが、最初は思うようには進まなかった。2003年~2004年は、まさに倒産寸前という会社経営の危機的状況まで陥る。その時の心情を「真っ暗なトンネルを、出口が見えない状況で全速力で走っていく感覚」と語る。
具体的には、本部のビルを縮小しコストを削減するなど経営上の“見栄”を徹底的に排除したり、お客様のニーズをしっかり把握したり、営業部とのディスカッションを密にし、教育を徹底した。地道な努力の結果、約半年間で黒字転換を成し遂げた。

「銀行員としての経験から、経営計画書を作ったり財務を分析したりすることには慣れていたのですが、5年間の銀行員生活の中ではプレイヤーとしての経験しかなく、部下を育成したり組織を作っていくためには何をすべきかが全く分かってなかったのです」と当時を振り返る。

「私の上司は入社当時から今に至るまで誰もいないし、物事うまくいけばそれは皆さんのお蔭であり、失敗すればその責任はすべて私の責任。そう思ってやってきました。」

経営する立場に立ち、自分が一番優秀な人間ではないということに気付かされたことは大きな収穫だったそうだ。

そして、2005年に代表取締役社長へと就任した。

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中古車業界の慣習への挑戦

両親の教育もあってか、幼い頃から暇でやることがないと思ったことがないと語る井上さん。

「カーセブンをユーザーの方にこの7マークがあるお店であれば、安心して車が買えるといった絶対的信頼感を持ってもらえるような日本を代表するナショナルブランドに育てたい。」

そんな熱い想いの下、従来のやり方に固執しない時代の先を行く中古車業界のあり方を模索し続けているという。車を調達するためにオークションを利用 するという従来の“当たり前”のやり方を捨てることで「広告宣伝費」「手数料」「陸送費」という中間マージンを徹底的に削減し、独自開発のスマートフォン を利用した「インスマートシステム」を展開し新しい流通システムを構築した。インスマートシステムではスマートフォン専用アプリを利用することで情報提供 が可能となり、買取りと仕入れをマッチングさせることで売り買いの契約を保証する仕組みになっている。そして、カーセブンがこのプロセスに発生する従来の 負担を代わりに背負い、さらにオークション開催や集客などの余計なコストは一切かからないというわけである。

将来の展開

「日本の中古車は100万台以上が海外に輸出されていますが、その海外流通の80パーセント近くを海外の方が担っている現実があります。日本人として、日本の企業が作ったモノを日本以外の人がメインとなってユーザーに届けていくことに疑問を感じたんです。
また、違った視点から言えば、本来は日本国内で販売されたモノであれば、国内でリサイクルされなければならないのに、それが海外に渡ってしまっているということである。
色々なバイヤーの手を渡って海外ユーザーの元へ届けられるのであれば、私たちは新車ディーラーネットワークでグローバル企業になるべきだと思う。具体的には海外に展示場を作って、日本で買い取った中古車をユーザーに直接販売するという展開を実現したい。」

現状に甘んじず、日本や世界全体の未来を見据えて謙虚に邁進する井上さん、そしてカーセブンの更なる発展にこれからも注目していきたい。

取材:四分一 武 / 文:Lily編集部

メールマガジン配信日: (前編)2013年6月5日  (後編)2013年6月12日