株式会社Eストアー(東証JASDAQ上場)は、創業以来20年を超え、顧客の自社ECサイトの構築と運営に特化してきた企業である。同社が開発・提供を行う『ショップサーブ(中小企業向けSaaS型ECサイト構築システム)』は、これまで累計5万社を支援してきた実績を誇り、その流通総額は1兆円に上る。

2020年1月には、大企業を主要顧客に抱える株式会社コマースニジュウイチ(PaaS型ECサイト構築システムの受託開発)を買収。さらに同年3月には、大型のネットプロモーションを行う株式会社ウェブクルーエージェンシーを傘下に入れ、中型から大型のEコマース支援事業者として、グループ経営基盤を大幅に強化した。

創業時より市場を切り拓いてきたパイオニアとして、また業界のリーディングカンパニーとして輝きを放ち続ける同社だが、その歴史を遡ると、ある日リストラに遭った3人の男が、新宿2丁目のワンルームマンションで起業したという意外なエピソードから始まっている。本稿は、代表の石村氏の幼少期まで遡り、他メディアでは知ることのできない同社の軌跡を紐解くことができた。

自社本店EC支援企業No.1の実績!創業20年を超えるパイオニア企業。

私たちは、いわゆる「自社本店EC」(または「専門店EC」)の総合支援を行う会社です。EC領域には、たとえば『楽天市場』『アマゾン』に代表されるような「総合店EC(モール)」が存在します。一方で、当社は創業当初より「自社本店EC」に特化してきました。『楽天市場』の出店者がまだ100店舗にも及ばなかった1999年、日本で初めて「自社本店EC」を始めたパイオニア企業なのです。

当社が一貫して「自社本店EC」にこだわり続けてきた理由。それは、創業時からデジタル時代の到来を見据えていたからです。私たち消費者は今、情報のインプットも購買も、スマホひとつでダイレクトに行っています。「自社本店EC」では、消費者とのダイレクトなコミュニケーションが実現できるうえに、購買経路も直販。企業は高い利益率を確保できます。一方の総合店EC(モール)では、その主導権はすべてプラットフォーマーが握っています。顧客との長期的な信頼関係を重視する企業にとって、デジタル時代における経営改革の1丁目1番地は、まさにEコマースです。情報過多の社会に生きる消費者も、より人間味あふれる購買体験やコミュニケーションを望んでいます。「安価」「大量」「スピード」「ポイント還元」など、総合店EC(モール)に対する消費者ニーズは引き続き残る一方、「専門性」「クオリティ」が求められる自社本店EC領域は、今後さらなる成長が期待される注目のマーケットだと感じています。

当社の強みは、20年間積み上げてきたノウハウはもちろん、グループ3社のシナジーを発揮し、ECサイトの企画から設計、構築、運営、管理、分析、販促にわたるまで、顧客へのソリューションをワンストップで提供できること。EC構築業界における売上高、流通取引総額ともに、当社はナンバーワンのシェアをいただいており、EC売上高トップ100社の企業のうち、12社がクライアントです。なかには、ゼロスタートから年商100億円へと成長したサイトも存在します。

株式会社Eストアー 代表取締役 石村 賢一さん都会っ子。〝オタク気質〟は小学生時代から。

生まれは東京、麻布十番界隈の下町文化で育ちました。かつての東麻布といえば職人の街。隣の麻布十番は、彼らが飲食するエリアとして栄えていました。地元の同級生にも、職人の家が多かったですね。私の祖父も例にもれず、箪笥などをつくる職人でした。蒸気機関の先駆けの時代に、祖父はその仕組みを活かして薪を切り始めたそうです。今でいうベンチャーの木工所でしょうか。当時はそれなりに、一旗揚げたと聞いています。

小学生時代の私は、地味でパっとしない、運動オンチな少年でした。「三角ベース」や「鬼ごっこ」など、外遊びも人並みにはしましたが、根本的にオタク気質なので、家にいるのが好きでしたね。デパートの包装紙の裏に、よく絵を描いたのを覚えています。

自分の「好き」を発掘した中学時代。学業は…?

小学校卒業後は、千代田区にある名門公立中学校へ。両親の期待を大いに背負った、いわゆる「越境通学」でした。しかし…。入学早々、心から夢中になれるものを、勉強以外で見つけてしまったのです(笑)そもそも学校の立地がマズかった。ちょっと「御茶ノ水」に足を伸ばせば、たちまち楽器に魅了されました。さっそく仲間と、ロックバンドを結成。授業が終わると、すぐにスタジオに直行する日々でした。また、「秋葉原」も同様、オタクの私には魅惑の街でした。お気に入りの電気店に通いつめ、時を忘れて電子工作に没頭。ラジオやアンプ、最終的にはPCまで自作していましたね。そんな調子ですから、学校の成績は酷いものでした(笑)もはやビリから数えたほうが早いほどの落ちこぼれです。普通に勉強していれば、早慶附属高校に進学できると踏んでいた両親としては、大いに落胆したことでしょう(笑)。

家族も仰天!意外なバイト代の使いみち。

なんとか高校へ進学した後も、今度はバイト三昧の日々。部活にも入らず、夜まで働いていました。六本木界隈の喫茶店や飲食店、スーパーマーケットなど、一通りのアルバイトは経験しました。ちょっと変わった傾向としては、「来てくれるだけでいい」という不思議な案件で、引っ張りだこ状態にあったこと。飲食店や喫茶店のオーナーから、「お前がいると、なぜか客が来る!」と、非常に重宝されたのです(笑)ホール業務を手伝ったり、ときには座ってコーヒーを飲むだけだったり、そんな任務で多忙でした。

稼いだお金を真っ先につぎ込んだのは、自分の部屋に電話を引くこと!当時はポケベルもケータイもない時代です。家の電話で友達や女の子と話していると、親から叱られるし、寒くて暑い!(笑)電話を引くには、権利だけで12万円かかりましたから、時給260円のバイト代2~3ヵ月分を、一気に投入したわけです。いま思えば、自立したい気持ちが強かったのでしょう。

また、高校2年生の冬には、再びバイト代を全額つぎ込み、予備校に通った時期もありました。理由は、美大に行きたかったからです。きっかけは、友達の父親が働く、「電通」という会社を知ったこと。そのお父さんが、とにかくカッコよくて素敵だったのです。彼のような職業に就くには、どうやら電通に入社する必要がある。電通のクリエイターといえば、美大を卒業している。美大に合格するには、予備校へ行く必要がある!…自分のなかで、本気のスイッチが入った瞬間でした。すぐさま「受験準備コース」に申し込み、予備校生活がスタート。絵を描いたり、粘土で作品を創ったり、とにかく楽しい毎日でした。しかし、結果的に美大合格は叶わず…。目指すのが遅すぎたこともありますが、正直それほど才能がないと、自ら悟っていたのです。「絵がカタい」「マトモ過ぎる」と先生からも言われていたので、結果は腑に落ちていました。後にコンピュータ分野の仕事に就いたとき、「自分に向いているものはこっちだった!」と、明確に自覚した瞬間がありましたね。

バイトと遊びの大学生活。入学から半年で、留年確定!?

結果的に、日大理工学部の建築学科に進みました。実家が建築関係の仕事をしており、卒業さえすれば最低限の働き口があるからと、親の意向があっての進学でした。ところが…。学費を親に負担させておきながら、入学初日に教科書すべてを売却(笑)バイトと遊びの生活に、すぐさま突入したのです。「試験前の一夜漬けで何とかなるでしょ!」…当時の私は、高校時代と同じような感覚でいたのです。しかし、なんと「履修」の仕組みを知らぬまま、夏まで海で遊び呆けていた結果、単位が一つも取れていないことが判明!入学から半年にして、留年が確定しました(笑)さすがに反省したのも束の間、もとの生活に逆戻り…。せっかく深夜も働ける年齢になったし、バイトが楽しくて仕方なかったのです。私にとってアルバイトは、まさに〝リアルキッザニア(職業体験)〟の世界!多いときには、1日6個のバイトを掛け持っていました。間違いなく、父親より稼いでいたはずです(笑)事務スタッフや家庭教師、水商売にわたるまで、あらゆる仕事を経験しましたが、印象に残っているのはホテルの仕事でしょうか。ホテルでは、従業員の半分以上がアルバイトスタッフ。管理職の業務でさえ、バイトが担っていました。私がナイトマネージャーとして勤務していたある夜、外国人が宿泊する客室で、救急車沙汰が発生!そのときも、アルバイトである私に、現場のすべての裁量が与えられていたのです。当時から、やっぱり仕事が大好きでした。お金を稼げることはもちろん、仕事そのものが楽しくて仕方なかったんですね。

株式会社Eストアー 代表取締役 石村 賢一さん人生最大の転機となった、西 和彦(にし・かずひこ)氏との出逢い。

株式会社アスキーに出逢ったのは、私が大学6年生の夏。2度目の留年で、もはや卒業の見通しさえ危うくなっていた頃でした(笑)パソコン雑誌『アスキー』の読者だった私は、裏面に掲載されていたアルバイト求人に応募。大好きなパソコンが、思う存分イジれる!しかも、自分じゃ手が出せないような最新鋭の機器に触れる仕事です。オフィスの立地も青山だし、最高すぎるバイトでしょう。そんなノリで面接へ行くと、ちょうど秋入社を志す学生たちが集まっていました。本来なら、彼らより先輩のはずの自分。順調にいけば来年こそは就活だが、それもたぶん無理…(笑)やや複雑な感情を味わいつつ、面接は無事に終了。運命の出逢いは、その直後に起こりました。偶然にも、アスキーの創業者、当時まだ副社長だった西 和彦(にし・かずひこ)氏に、廊下ですれ違ったのです。「君、なんや!」…それは、あまりに唐突な出来事でした。「いくつや、コンピュータ好きか?」「どんな言語を書くんや?」「新卒か?」…矢継ぎ早に飛んでくる質問に戸惑いつつ、自分が留年中の身であること、バイトの面接に来たことを告げると、彼の口から、まさかのサプライズが飛んできたのです!「来年、大学辞めてウチに就職しないか?別に大学なんか出たって、ええことないで!」…と(笑)そのまま西さんに連れられ、つい先ほど面接を終えたばかりの人事担当者のもとへ。社長と常務を呼び出して面接が始まり、たった1分で内定!(笑)この瞬間、6年間通った大学を中退することが決まりました。

当時のアスキーはまだ、従業員200名ほどの小さな会社。一般的には、誰も知らないような企業でした。父が私に期待していたのは、大卒で一流のゼネコンに就職すること。それが、まさかの大学中退!しかも、得体の知れない小さな会社に就職しちゃったわけですから、その落胆は大きなものでした。しかし偶然にも、父方の叔父がアスキーをよく知っていて、私が入社したことを喜んでくれたのです。私の叔父は、後にYAMAHAの社長になった人で、当時はFM音源のチップを開発する研究者であり、浜松の工場長も務める憧れの人でした。「西さんは天才だぞ!アスキーは最先端の会社だ!」…尊敬する叔父から大絶賛を受け、非常に嬉しかったことを覚えています。

インターネット黎明期。未来社会の最前線にいた、エキサイティングな日々。

当初はプログラマーとしての入社でしたが、西さんから命じられたことは、営業やらセミナー講師やら、部門の立て直しまで、片っ端から何でもやりました。最終的には、社長になった西さんの秘書のような存在になっていましたね。社内で最も可愛がってもらった部下といっても過言ではないでしょう。

朝から晩まで働き詰めでしたが、とにかく楽しかった!なぜって、日本人が誰ひとりとしてインターネットに触れたことがない時代に、〝世界中のコンピュータが繋がる未来(インターネット社会の到来)〟の最前線にいたのです!今となっては信じ難い話ですが、インターネット以前のいわゆる「パソコン通信」は、ハードの銘柄が違うだけで、互いに通信できないのが常識でした。メーカーごとに、それぞれ通信プロトコル(手順や規格)が異なるためです。ちなみに、日本におけるインターネットの発足・普及の契機となったのは、慶応義塾大学の村井教授が創設した『WIDEプロジェクト』でした。(WIDEプロジェクト:1984年、慶應義塾大学と東京工業大学のコンピュータを、電話回線でつなぐことに成功。同年、日本初のコンピュータ・ネットワーク『JUNET』を設立した村井教授が、ネットワーク構築に意欲的な大学・研究機関と『WIDE研究会』を結成。1988年、全国の大学や研究機関、企業が参加するコンソーシアム『WIDEプロジェクト』を創設した)。初代メンバーは、NECの関本社長をはじめ、IBM、日立などを含む、錚々たる顔ぶれ。同プロジェクトにおいてアスキーは、アメリカ発のインターネットに関わる技術を、日本に導入するための重要なミッションを担っていました。通信プログラムの開発をアスキーが担い、私はそれを日本中のパソコンに導入するべく営業に奔走。会議などで、アメリカへ頻繁に渡りました。まもなく世界中のコンピュータが繋がり、人々が自由にコミュニケーションを行う未来社会がやって来る…。これは、とてつもない世の中になる!間近に迫る社会の激変に妄想を羽ばたかせ、猛烈に興奮したことを覚えています。

〝時代の寵児〟ともてはやされた企業が、深刻な経営危機に。

1989年、日本の株式市場の絶頂期に、アスキーは店頭公開を果たしました。未だかつて誰も見たことのない世界を実現しようとする専門家集団として、投資家からの期待を一身に背負い、華々しいデビューを飾ったのです。同年、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終了。翌年以降も日本の時代が続くと、誰もが信じていました。年末の日経平均株価は、なんと市場来最高値で取引を終了。しかし、続くと思われていた日本の株価・不動産の上昇神話は、この年を起点に崩壊への道を歩み始めたのです。バブル崩壊の影響を受け、会社の経営状況は急激に悪化。多岐にわたる投資をしていたこともあり、すべてが逆回転を始めました。

私が解雇されたのは、まさに子どもが生まれる半年前。120名の一斉解雇という、凄まじいリストラでした。銀行からの指導により、社内の不採算事業はもちろん、投資フェーズにあった事業も軒並み整理され、私が所属していたパソコン通信一派も、このとき部門ごと消えました。転職活動を半年間ほど試みた後、私と数人の仲間は、運良く仕事を得ることができました。インターネットセキュリティ関連の業務で、セコムの飯田社長からお声がけいただいたのです。あのときは本当に助けられました。今でも感謝しています。

株式会社Eストアー 代表取締役 石村 賢一さん起業したのは、これまでの〝続き〟をやるため。

とはいえ、いつまでも甘えているわけにはいきません。忘れもしない、1998年。吉祥寺の喫茶店で、私は2人の仲間と起業を決意しました。まずはオフィスとして、新宿2丁目のワンルームマンションを契約。新宿2丁目は非常にクリエイティブなエリアであり、飲食店も24時間営業していたからです(笑)「さぁ、アスキーからの続きをやろう!」…りそな銀行(当時は大和銀行)に、さっそく融資の申し入れに行きました。〝続き〟とは、EC事業に着手すること。当時はまだ、「Eコマース」という言葉もなかった時代ですが、インターネットの変遷を見てきた我々にとって、次の未来はECにあることは明らかでした。

創業期に経験した、USEN宇野社長との大仕事。

創業から約2年は、受託の仕事で繋いでいました。そこへ彗星のごとく現れたのが、当時の大阪有線放送社(現:USEN-NEXT HOLDINGS)の宇野康秀社長。アスキー時代、顧客として出逢った方ですが、私の人生において、西さんに次ぐ神様となりました。当時の宇野さんは、創業者である父親が築いた有線放送の事業から、IT企業への一大シフトを図っている最中でした。自社の商材がなかった宇野さんから依頼されたのは、レンタルサーバーをつくること。それは、我々にとって朝飯前の仕事でした。ひとまず3日ほどで構築を終え、彼の会社を訪問。まずは12名の営業メンバーに、レンタルサーバーに関するレクチャーを行いました。すると、瞬く間に売れたのです。USENの営業ってスゴイ…!しかし、それは単なる序章に過ぎなかったのです。宇野さんからは、「1ヵ月後には全国展開するから覚悟して。人を増やしたほうがいいよ!」という言葉と共に、4人のスタッフが派遣されてきました。そこからはもう、嵐のような日々!一日中、電話が鳴りやまないのです。受託仕事を細々と続けていた年商2億の会社は、気づけば翌年には13億へと急成長!そこへ、株式上場準備のための新たな部長が投入され、私たちは創業4年目にして、上場を果たしてしまったのです。とはいえ、現場は戦場そのものでした。あまりの忙しさに追い詰められたスタッフがトイレで泣いていても、「お願いだから電話に出て~!」と、引きずり出すような始末(笑)「とりあえず、肉でも食べて元気になろう!」と、当時は週4くらいで焼肉屋へ連行していましたね(笑)当初の宇野さんの言葉通り、彼の営業組織は3年ほどで商材を売り切ってしまいました。その後、彼は父親の代から社会問題となっていた電柱使用問題を見事に解決し、私たちと同じく2001年、大証ヘラクレスへの上場を実現。通信の常識を塗り替え、世の中を大きく変えていきました。私たちはそこから、ようやくEC事業に回帰したのです。

株式会社Eストアー 代表取締役 石村 賢一さん自社本店EC支援企業、Eストアーの沿革とこれから。

当時はまだ、EC黎明期。自社本店EC領域は、市場にライバルがいない状態でした。3年ほどは当社の独壇場でしたが、このマーケットの可能性に気づいた企業からの参入が相次ぎ、今や大小約800社の競合がひしめく、一大マーケットへと成長しています。常に先行者利益を享受してきた我々ですが、「自社本店EC」支援の軸はぶらさず、約7年のスパンで事業を変革してきました。創業期のサーバー構築に始まり、EC黎明期にはSaaS型ECサイト構築システム『ショップサーブ』の提供をスタート。ネットショッピングにおける〝カート〟の概念を世に送り出しました。また、スマホ元年にはマーケティングを徹底強化。そして、インターネットの普及から20年、スマホ元年から10年を迎える今、商業のデジタルシフトが、まさに本格化していくタイミングです。コロナ禍により、その時間軸はさらに早まり、企業の顧客接点となる自社本店ECの市場は、今後ますます拡大していくでしょう。人口減や高齢化など、市場の変化への対応も急務です。より高度かつ大規模のECにも対応すべく、当社は戦略的なM&Aを行い、今期から100億円体制を整えたところです。1999年、ネット上に専門店ブティックがひしめく世界を描いて事業を始めた当社ですが、その未来が徐々に近づいてきました。これから、さらにアクセルを踏んでいきます。

 

◆ 編集後記 ◆

株式会社Eストアーの本社は、東京虎ノ門グローバルスクエア19階。天気の良い日に取材に伺うと、オフィスに入った瞬間に、最高の見晴らしが迎えてくれた。こんな環境でぜひ働いてみたい!そう思わされるような、とにかく素敵な空間だった。

「中学生ぐらいの頃から、ずっと〝続き〟をやっている感覚です。これまでもそう。これからも、〝続き〟をやっていくだけ」…事業について、そのように語る石村社長。取材中にも、パソコン黎明期の商品名が続々と出てきたが、彼には若い頃から電子工作に没頭してきた原体験があり、その延長線上にパソコン通信やインターネットの発展、そして、まだ私たちには見えていない未来がきっとあるのだ。世界中がネットワークで繋がることにより、社会が変わっていくことへの純粋な好奇心、いわばトキメキに突き動かされているのだと感じた。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2021年2月22日